□ 二九 □
その日の午後、双子は首都ニールに向けて出発した。
「書面では取り上げられる恐れがある。口頭で、陛下に直接申し上げるように。間違いなく確実に。良いね?」
襲撃の前に首都に派遣されたラピスは、結局、国王に面会できなかった。手紙を取り上げられ、陛下の返事としてバジルから書面を受け取っただけであった。
――どうしてもカリン陛下に直接取り次がせたいなら、文書ではなく口頭の方がいい。
ザールの献策もあって、アイキは二人にそう言い含めた。
内容は二点。
今回の戦いの顛末と、「ロキの裁判はリスナで行わせてほしい」という請願。後者は請願という形を取りながらも、ロキをニールに送ればリスナが暴動状態になるから譲歩の余地はないと、しっかりと国王に伝えなくてはならなかった。バジルを飛び越して、直接カリンに話を付けようとすれば、当然バジルには面白くないだろう。
――だが、カリン陛下に少しでも意地があれば、必ずや自尊心をくすぐられるはずだ。
そう期待して、アイキはあえて双子を二人ながら送り込むことに決めていた。
「上手くいけば、陛下もバジルの専横を阻止しようというお心が生じるかもしれないね。」
ザールもアイキの策を聞いて、納得したらしく、ジンジャーともそう気脈を通じておこうと約束した。知事ダナンは、海賊事件が極めて平穏に解決したように見える今となっては、できることならその手柄に一枚かみたいところであろうが、首都との関係が綱渡りである現状では、黙って事態の進行を見守る方が得策だと判断したらしい。全く口を挟もうとしなかった。ダナンが日和見に徹していることは、アイキにとってもありがたかった。
双子が結果を報告しに戻ってくる前に、首都からの使いがリスナに現れた。入れ違いになったとは思えない。日数を計算すれば、双子の報告を受けて首都から派遣された使者であることは間違いなかった。
アイキはその使者の名を聞いて、一瞬呆然となった。
使者の名はジーン。
カリン国王の親衛隊副隊長であり、アイキの士官学校時代の無二の親友である。陛下が自ら、事情を調べようとなさっているのか、それともこれもバジル宰相の差し金なのか。量りかねて、アイキの指先が首筋を軽く叩いた。
「ジーン副隊長がお着きです。」
緊張感に満ちた兵士の声。
「久し振りだね、アイキ。もう、十八年も経っちゃったよ。」
執務室にはリスナ海兵隊副指令リアと、リスナ守備隊副指令コア、そしてリスナ総司令のアイキが立って、ジーンを迎え入れた。ジーンは、十八年前と全く変わった様子もなかった。ただ年を重ね、無邪気な中年男になった、そんな様子である。
「あぁ、本当に久し振りだな。親衛隊の副隊長をしている、とか。」
「そうなんだ。これでもなかなか忙しいんだよ。」
悪戯っぽく笑うジーンからは、難しい交渉を前にした苦渋のようなものは感じられない。しかし絶え間なくアイキの副官達の様子をうかがう抜け目ない眼差しが、彼には彼の培ってきた対人経験があることを物語っていた。そして彼は意を決したように、深く息を吐く。
途端に、空気が変わった。
人当たりの良い笑みはそのままに、ジーンは親衛隊副隊長の顔になる。
――なるほど。それだけの器だな。
リアはぐっと姿勢を正した。
「では、リスナ総司令、ウィンズ家アイキ。いくらか問いただすべきことがある。正直に答えるように。私への答えは全て、陛下に対する答えに等しい。私を欺くことは、恐れ多くも陛下を欺くことになる。心して答えよ。」
「はい。」
コアが唾を飲むのが分かった。それほどに執務室内は静まりかえっていた。少しふくよかになったジーンの頬が、緊張したように薄く赤らむ。
「まず一つ。海賊を捕らえたら、首都ニールにその頭を送って、裁断を仰ぐのがこの国の掟である。今までもその掟を守ってきた、リスナ総司令がそれを知らぬはずはない。それなのに今回に限ってそれを怠った。捕虜の数は海賊船五十三隻分と聞く。なぜ海賊を首都に送らないのか。送らなければ、叛意ありとの疑惑を生むことは自明であろう。過失ではすまされない罪である。これについて、どう弁明するつもりか。」
答えは分かり切っていた。既にラピスとルビーに言い含めた言葉を繰り返すほかない。
「捕虜達を抑えるためには、あのロキという男をリスナに確保しておくことが重要なのです。あの男がいるから、あれだけの荒くれが大人しく指示に従っている。もしロキをニールに送れば、あの荒くれ達を押さえつけておくことは難しいでしょう。おそらく一度、暴動が起これば、リスナに駐在している兵力の全てを傾けても、鎮圧することは不可能です。」
淡々としたアイキの言葉に、ジーンは溜息をつく。
「それは聞いたよ。アイキ。でも、俺が聞きたいのはそんな建前の話じゃない。陛下は心配なさっている。本当にアイキが自分を裏切るんじゃないかって。」
「それならば陛下に使者を送ったりはしない!」
背筋がざわざわと痺れるような感覚が走った。
――陛下が疑っている?
声が途中で裏返るのを覚えた。不安げにリアが視線を投げてよこす。
「首都への使者ではなく、陛下への使者を送った。これが私の全力の忠誠心だ。」
「でも、アイキ、彼らは投降兵だろう?」
ジーンは親衛隊副隊長の顔を引っ込めた。小さく首をかしげる。
「投降兵が自分から降伏しておきながら、もう一度逆らうなんてこと、考えにくいよ。少なくとも首都ではそんな理屈は通らない。」
「……。」
「アイキがロキを送ってこないのは、初めからロキと裏でつながっていて、兵力を蓄えるために今まで別行動を取っていたんだと。そう疑われているんだよ。」
――首都には通じない。アイキに親近感を抱いているはずのジーンであっても、戦場の機微に通じているはずのジーンであっても、通じない。
それはそうだろう、とアイキも思った。ロキという男を知らなくては、この状況は理解できない。自分にだってまだよく分からないのだ。今回のロキ達の行動は、あまりにも唐突で突拍子もない。首都の疑惑こそ、自然な発想だろう。
「ロキが何を考えているかなど、私には分からない。だが、あの男は間違いなく天才的な海賊だ。あの男に惹かれて、私に降伏してきた者が多い。それは私があの男を首都に送り込めば、あの男を追って、私の下を力ずくででも出てゆこうとする者が多いということだ。」
「それを押さえつけるのがアイキの仕事じゃないか。」
いさめるような口調のジーン。
「どうしてそんなことで陛下を心配させるの?どうしてそんな意地を張るの?君はそんな頭の悪い人じゃなかったはずだよ。」
それから一つ、溜息をついて、言った。
「変わっちゃったね。アイキは。」
一瞬の沈黙を、アイキの低い声がうち破った。
「ジーンは変わっていないのか?」
ジーンは顔を上げた。そして優しく微笑んだ。
「ううん、俺も変わった。すごく変わった。妻がいる。子供がいる。彼らのために、この国を守りたいし、一日でも長く生きたい。昔は、国のために死ぬのが本望なんて思ってたけど、今は生きるためにこの国を支えたい、陛下を支えたいと思っている。俺はこういう風に変わった自分自身に、誇りを持っているよ。……みんな変わるんだ。」
「そうだな。私も多少は変わったかもしれない。でも陛下への忠誠心は変わらない。」
「そうだといいんだけど。」
おっとりとジーンは目を伏せた。
「この十八年間で変わらなかったものなんて、きっと士官学校の花壇の花ぐらいだよ。あそこの花は今でも同じ。園丁の爺さんは何代か代わったのに、植えるのは毎年同じ花なんだ。覚えてる?」
「士官学校の花壇?」
「ほら、アイキが国王陛下に初めて話しかけられた、あの植え込みのさ。」
アイキは首を傾げ、しばらく考えていたが、目を伏せるようにして小さく応えた。
「すまない。覚えていない。」
「変わっちゃったんだね。本当に。」
ジーンの声が沈痛な響きを帯びた。アイキは、首都からの使者を来賓用の部屋に案内するようにとリアに命じ、会見をうち切った。これ以上の会話は不毛だと、ジーンも同意した。
客室への長い廊下を、足音を響かせて歩きながら、ジーンは額の汗を拭った。真夏のリスナは首都よりも暑い。
「リア副指令はさ、望めばもっと出世できたはずでしょ。こんなところでいつまでも副官を務めていないでも、その実績があればさ、首都に戻って俺なんかより高い地位につけるはずじゃない。出世の話が来て、断ったりしたの?」
年齢的にはジーンの方がリアよりも十二才程、若い。しかし今は、国王直属組織の副指令職であり、身分の上では同格であった。アイキの副官であることも手伝ってか、ジーンは砕けた調子でリアに尋ねてくる。リアは押さえた口調で応じた。
「私にとっては天職だったからね。何をするよりも、あの方の副官であることが。だから他の職に移る話は断った。何度も、ね。」
「へぇ、天職か。いいな、そういう確信を持てるって。」
ジーンは鼻の頭をかいて、しばらく何かを考えているようだった。
首都からの異動命令を拒否するのは、一歩間違えば国王の命令に逆らう意志ありと疑われかねない。そうなればアイキをも追い込みかねない。それでもリアはリスナ副指令の地位を離れなかった。
「ねぇ。」
ジーンはゆっくりと隣を歩くリアを振り向いた。その目は、アイキのそばでは決して見せない冷たい色を秘めていた。
「アイキを追いつめるのはもうやめてよ。リア副指令。アイキは自分から陛下を裏切ったりする人じゃない。あなたがアイキを変えたんだ。」
「私が総司令を変えた?」
予期せぬジーンの言葉に、リアは素直に戸惑いを示す。ジーンは少し興奮したように言い募った。
「そうだよ。リスナに来てアイキは変わった。アイキを返してよ。あんなの、俺、」
リアは立ち止まって、穏やかな声を殊更押し殺したように、低く言った。
「はっきりさせておこう。ジーン。君が追っているのは、総司令の過去の幻影だ。君と別れてから、総司令は既に十八年の時間を過ごしている。私はずっとその間、総司令のお側にいた。君が十八年前の幻影を追うのは、君の勝手だが、俺はありのままの総司令を知っていると思っている。」
窓の外を風が高い音を立てて過ぎてゆく。晩夏の嵐が近づいているのかもしれない。
「……何だよ。悔しいなぁ。」
徹底抗戦も辞さないつもりのリアの意表を突くように、おっとりとジーンがつぶやきながら立ち止まった。その表情はどこか嬉しそうでさえあった。
「悔しいよなぁ。俺、誰よりも、アイキをよく分かっていると信じていたのにさ。そんなにはっきりと言われちゃうと、もう、どうしようもないじゃない。俺、あなたがアイキに出会うよりずっと前から、何があっても俺だけはアイキの味方だって心に決めていたんだよ。首都の武官の中じゃ今でも俺が一番のアイキ贔屓なんだよ。それでもここに来たら、みんな、俺なんかよりずっとアイキを信じているじゃない?俺が一番アイキの敵みたいじゃない?あぁあ、癪だなぁ。」
リアは安堵した。ジーンは混乱している。だがその混乱を自分の中で昇華できるだけの度量がある。
――やはり陛下が親衛隊に置くだけの器だな。そしてリスナに派遣されるだけの器だ。
「天職、か。羨ましいな。俺もいつかそんな職にめぐり逢えるかな。」
二人は再び足音を響かせて歩き出した。客室まではもうすぐである。
「ねぇ、リアさん、副官同士のよしみで、一つ正直なこと、教えてよ。」
目を合わせることなく、ジーンはつぶやきとも取れる声で言った。
「俺、これからもアイキを信じていていいんだよね。」
リアはゆっくりと頷いた。すると肩の力を大きく抜いて、ジーンも頷いた。
「そっか。じゃあ、俺、信じるよ。陛下にもそうご報告する。リスナ総司令アイキには反逆の意志はございませんって。陛下もすごくご安心くださると思う。」
客室の扉は、重く、ドアノブは冷たかった。じめじめした夏の盛りに、総司令部の廊下を緩やかな風が吹いていった。少しずつ、秋が近づいてくる。