□ 三十 □
あの日、アイキを捕らえたロキは「儲かったからいい」と言って、アイキを解放した。
アイキの命などもらい受けても、あるいは助けたとしても、彼にとっては一文の儲けにもならないはずだった。だが、リスナにアイキを送り届けたとき、ロキは確かに「儲かったからいい」と言って笑った。
とりとめもなくいろいろなことが脳裏を過ぎる。
――駄目だ。
何度も寝返りを繰り返しても訪れない眠りに、アイキは身を起こした。体は疲れ果てている。だが、何かが心の奥に引っかかる。
――直接聞けばいい。あの男は今リスナに居る。
ロキを捕らえてもうずいぶん経った。何度も訪れようと思った部屋。
ドアを叩けば、深夜の訪問にも関わらず平然としてロキはアイキを迎え入れた。
「眠れなくてな。」
言い訳めいたアイキの声に、ロキは目を見開いてみせる。そして芝居かなにかのように大げさな台詞回しで、
「じゃあ、よく眠れるようにしてやろう。お姫様。」
アイキの肩を抱いた。
そして、そのときロキは唐突に言ったのだった。
「死んでしまえば、その後の世界など、俺には一文の価値があるとも思えない。自分が死んでまで何かをなそうとするのは、全く意味があることとは思えない。俺の命のあるうちだけ、この世界には存在する価値がある。違うか?」
「……何が言いたい?」
「死を賭してまで望むことが、この世にあるのか?」
――その話か。
答えは決まっていた。今更迷うことは何もなかった。アイキははっきりと応えた。
「私は、この広大な世界を愛している。」
その答えを待ちかまえていたのだろうか。ロキが鼻を鳴らすのが分かった。
「ならば……愛する世界を自分の手に収めてみたいと思わないのか?この国を。あるいはこの大陸を。」
陸の上で長らく過ごしているはずなのに、ロキは海の匂いがした。返事をしないアイキに、ロキは笑うような声音でささやく。
「お前が望むなら、国王陛下とやらを奪いとることだってできるはずだ。お前の海兵、俺の海賊、合わせれば何だってできる。首都を制圧して、自分の男にすることだって。さもなきゃリスナに攫ってきて、手元に置くことだって。今のお前なら思うままだろう?」
「私はそんなことは望んでいない。」
ロキの部屋は白い扉に閉ざされている。高い窓からは夜の涼気がささやかに流れ込む。
「……国王陛下とやらを手元に置いて、思う存分甘やかして、戦争も政争もない幸せな夢だけを見せてやることだってできる。」
「陛下も……そんな生活は望んでおられない。」
「俺はリアとは違うからな。お前がどれだけ男を囲っても妬きはしない。」
「……リアを愚弄するな。リアが苛立っているのはお前に対してではない。あの男は私の弱さやうかつさに苛立っているのだ。」
――ロキと二人きりで話をしたなどと分かったら、またリアに怒られるだろうな。
ふとそう気付くと、不思議な感覚を感じた。捕囚と夜中に二人で語り合うなど、冷静に考えればありえない状況である。ロキが相手でなければ、自分だってこんなことはしない。リアが怒るのももっともだな、とアイキは小さく溜息をついた。
「リアを愚弄してんのはどっちだ。」
ロキがからかうように笑う。
「副指令殿もつくづく報われない男だな。」
――ロキには分からないのだ。
ロキの言わんとすることは理解できた。だが、自分とリアの間にある感情は恋愛感情などとはほど遠いものだ。少なくともアイキはそう思っている。
――リアはリスナを心から愛している。リアは「アイキ」に忠誠を誓っているのではない。リスナの守護者「アイキ」に忠誠を誓っているにすぎない。それだけの話だ。
海賊には海賊の、武官には武官の生き様がある。ロキに分からなければ、それはそれで構わない、とアイキは思った。
そう思い至った瞬間、理由は分からないがふっと肩が軽くなった。
――そうだ。聞きたいことがあった。
ゆっくりと目を閉ざす。そして開く。
「あの日……何が儲かったんだ?」
ロキの腕の中から逃れ出でて、アイキは扉に寄りかかった。ロキもそれ以上アイキに腕を伸ばすことはなかった。
「とりあえずは珍しいものを見た。珍しいものを生きたままもう一度海に放った。それだけでも十分面白い。だが。」
アイキの目を覗き込むように笑う。
「お前がリスナ総司令だと分かった時、俺は予想以上に儲けていることに気付いた。お前を成り上がらせてやろうと決めた。その日以降、俺の人生はとんでもなく面白いものになった。」
「……後悔していないのか?」
「何を?」
愚問だったな、とアイキはぼんやり思った。昼間の暑さが嘘であったように、白い扉はひんやりと冷たかった。
自らの足音を聞きながら、ゆっくりと深夜の廊下をたどる。執務室のベッドに倒れ込むと同時に、眠りがアイキを支配した。「双子はどうやらバジルが身柄を押さえているみたいだね。おそらく人質のつもりなんだろうけど。」
宮廷の様子に一番詳しいのは、相変わらずザールであった。宰相の座を下り、リスナ知事であったジンジャーを立派な文官として育て上げるべくリスナに隠居した彼は、ジンジャーが首都に戻ってからもアイキの相談役として総司令部に出入りしている。ジンジャーからの情報はやはり早くて正確なもので、アイキには大変ありがたかったし、ジンジャーとしても副首都との連携が取れるのは重要なことであろう。ザールの役割は隠居とはいえ、相変わらず重要であった。
そしてその晩も、ザールは首都の動向をアイキに伝えるために、深夜の執務室に居た。ニールへ使者として出向いたまま帰ってこない双子の居場所がようやく伝わってきたのだ。
「道理で戻ってこないわけですね。」
驚きはしなかった。だが、やはりバジルの手に落ちているというのは、気がかりである。
「大丈夫だとは思うけど。バジルもラピス達とは面識もあるだろう。」
バジルがリスナ知事を務めていたころから、すでにラピスもルビーもアイキの秘書官として駆け回っていた。顔を知っているという程度の知り合いではない。だが、だからといって、友人としてもてなされているとはとうてい思えなかった。ザールの言うとおり、人質のつもりなのだろう。
「ロキを首都に送り込まない限り、あの二人を帰さないということなんでしょうか。」
アイキの言葉に、ザールは首を傾げた。
「上手くない駆け引きだと思うけどね。それは。」
まだ夏は続いている。
海賊団を捕獲してから早十日以上が経ち、あの決戦の日の緊張感はだいぶ薄れたが、大量の捕虜を抱えたリスナの町は、大都市とはいえ、その捕虜の多さに異様な雰囲気のまま日を送っていた。
牢獄の船長達は、看守の許可を得れば、兵士の見張りの下、出かけることを許されるようになっていたし、船の中に押し込められている大量の船乗り達に至っては、ほとんど野放しであった。
だが、驚いたことに治安が悪化したという話を聞かないのである。海賊とは思えない従順さは、ロキが彼らにそう命じているからに違いなかった。
ロキさえ仕留めれば後は烏合の衆だと高をくくっていた自分を思い、アイキは今更ながら肝を冷やしている。
――大人しくしていろとロキが命じた、その一点だけで、海賊達は子羊のように大人しい。ロキの人望、あるいは海賊としての天才。全く恐れ入る。
「バジルにしては随分と狡い手に出たという感があるね。やっぱり陛下が自ら親衛隊を派遣して、アイキに尋問したっていうのが効いているのかもしれない。アイキと旧知の仲であるジーンを派遣したわけだからね。陛下がジーンとアイキの仲を知らないはずがない。バジルから見れば、自分の頭越しに話が進んでいるのを、手をこまねいて見ているしかないわけだ。」
執務室の窓から見えるのは深く茂る木々の陰である。もう日が沈んで長い。家々の灯りが、一つ、また一つと消えてゆく。月が木々の合間から光を滲ませる。
――そろそろ日付が替わるころだろうか。
そんなことを考えながら、ザールを戸口まで送ったアイキにぶつかるようにして、一人の兵士が駆け込んできた。
――緊急事態、か?
十四年前、ロキがリスナ海兵隊を勝手に離脱した朝の衝撃が、胸に蘇る。
深く息を吸い込むと、アイキは兵士に正面から目を向けた。息を整える間も惜しんで、兵士が敬礼の姿勢のまま口を開く。
「ご報告します!今、海賊船が五隻、勝手に出港しました。止めようにもかなわず、振り切られてしまいました。大至急、こちらも追撃していますが……」
「五隻?誰が指揮しているか分かるか?」
――今度は誰が出港した?
ロキでないことは確かだった。ロキの警備は厳重すぎるほど厳重である。逃げ出すとすれば、その途中で騒ぎになるはず。
だが、他の海賊であれば話は別だ。夜闇の中、あれだけ大量の船がひしめいている港から、監視の目を盗んで逃げ切るとは、難しいとはいえできないことではあるまい。追いかけるにも、向こうが灯りを落として上手く逃げれば不可能ではない。相手は百戦錬磨、神出鬼没の海賊達だ。
廊下で話を聞いていたザールが苦虫をかみつぶしたような顔をして汗を拭う。それに応じるように、兵士も袖口で額の汗を拭う。
「分かりません。ただ、牢獄の方から、ダールという男が酒を飲みに行ったまま、戻るはずの時間になっても戻っていないという報告が入った矢先でして。もしかしたら彼が、」
「ダールか。」
ダールはロキとは決して同じ船には乗らないという。ロキの船が沈んでもダールは生き残る。そのために別の船に乗る。ロキにとって、全てを任せることができる唯一の腹心である。
――なるほど、ダールならやりかねない。
アイキはほとんど確信に近い思いで、兵士の言葉に頷いた。
何を考えているのかよく分からないあの巨体が、身軽にリスナの警備網をかいくぐって、どこかへ出ていってしまった。
ロキの差し金なのか。あるいは、ロキに愛想を尽かして逃げたのか。
「とにかく追おう。皆を集めてくれ。」
それでも結局、ダールの消息はつかめなかった。