□  四  □



 聞き慣れてきた扉の軋みで目が覚める。ティルだった。
「頭が呼んでる。もうリスナが見えるころだから、準備して、すぐ来いって。」
「準備して、か。」
 少年の言葉をそのまま反復すると、部屋の中を見渡して少年は決まり悪そうに口の端を少しゆがめて笑った。
「まぁ、すぐ来いってことだろ。」
 アイキは立ち上がる。軽いめまいを感じながらも、壁に手を付くことなく、まっすぐに。箱はよし。他に忘れてはならないものもなし。少年の後に従って、薄暗く細い階段を上り、痛いほどの光が叩きつけられる甲板に出た。岸が見える。いったい今どの辺りだろうかと目をこらせば、リスナ郊外の町並みがかすかに見えて、手のひらがすっと冷たくなった。
 こんな近くにまで海賊船が入り込むなどありえない。あってよいはずがない。海兵隊はなぜ気付かない?
 自分の身に起こっていることであるのに、現実とは思えなかった。海兵隊の警備網に、こんな大きな死角があるなどとは思ってもみなかった。
 甲板の端で縛り上げられたままのジンジャー特使がアイキの方を気遣わしげに見ている。黙礼を送ると、彼は無理をして笑みを返した。
 すぐにロキが姿を現す。一体どのような目であの男を見ればいいのだろうか。アイキは男の目を見たいようにも、決して見たくないようにも思った。だが、疲労に痺れた判断力は既に行動を制御しきれておらず、音に反応してアイキの瞳は真っ直ぐにロキに向けられた。男がアイキを見る。
「これから博物院とやらの西に接岸する。サナとティルがお前を連れて行く。」
 淡々と計画を告げられる。男は昨日と同様、笑っているようで無表情な目をしていた。しかし、どこか昨日より意志の感じられる目で。
「なぜ?」
 聞かない方がよい、聞かずにそのまま指示に従えばよい。そうささやく声もあったが、その声に気づく前にアイキは言葉を紡いでいた。
「不満か?」
 男はどこか愉快そうな声で尋ねる。
「いや、ただ、それでは頭が儲からないだろうと思っただけだ。取り引きにならないことはしないのではなかったか?」
 引きつった表情で、ジンジャーがアイキを睨み付ける。アイキ自身、これで男の機嫌を損ねたらおしまいだと、わずかに残る理性の欠片が呻いているのは分かっていた。だが、男は機嫌良く笑った。
「儲かった。取り引きは成立している。俺は俺のやりたいようにやる。お前がどう言おうとな。」
 鬱蒼と茂る緑の中に灰色の四角い建物が識別できた。初夏の丘は緑深く、昼の日差しが突き抜けていく。博物院は港から歩けば三十分はかかろう。だが、確かに崖をよじ登れば最短距離でたどり着ける。天然の要塞のつもりでいた博物院は、海賊から見れば全く便利な場所にあったということなのだろうか。もしこの崖が登れるものであるならば。この絶壁が。
 そうじゃない。崖はどうでもいい。この男は何と言った?取り引きは成立した?
 さまざまな脈絡のない思考が入り乱れて、アイキの邪魔をする。
 目の前には、リスナ。ただその事実だけが確かなものであった。
「礼を言う。」
「それは筋違いだな。俺が無理にお前達を巻き込んだ取り引きだ。お前達ははじめから損をすることが決まっていた。礼なんか言っている場合じゃねぇよ。」
 その言葉にサナがくすくすと声を立てて笑った。絶壁が見る見るうちに視界いっぱいに迫ってきていた。
「その辺からなら行けそうかな。」
 長い綱を肩に巻き付けたティルが、船縁に足をかけて目を凝らしている。隣にいた上腕に彫り物のある男が、ティルに応えて、周囲に指示を出す。船は揺れながら崖に近づいていく。崖は急斜面ではあったが、完全に人を拒絶するような絶壁ではなく、近づいて見上げると、突き出した岩や、うねっている木の根、張り付いて生えている灌木など、足がかりになりそうなものが点々と見えた。慎重にルートを選べば、確かに登って行かれそうである。
 崖の上、黒く陰る木々の間に、強烈な光が溢れていた。リスナはぐるりとめぐる緑深い丘と、南に広がる真っ青な海とに囲まれた白い街である。長旅を終えた船を迎える石造りの町並みは、海と空の光を受けて、真っ白に輝く。
 その西の果て、丘の高みに位置する博物院へ、リスナの誇りである博物院へ、海から崖伝いに上陸するなどとは、住民たちには想像すらできないだろう。博物院は天然の要塞だと彼らは信じているのだから。
 港の辺りを見ようとアイキは振り返る。だが見事に死角を選んで接岸していたとみえて、視界には港を出入りする船さえ入らない。海ばかりが広がっていた。
「七隻あったはずだが、他の船はどうした?」
 いつの間にか、船が一隻になっている。気づいた疑問をそのまま口にして、アイキは自分の疲労が、言葉を選ぶ前に思考をこぼれさせるほどであることに苛立つ。
「海峡を集団で突破するほど馬鹿じゃない。ここの海兵は相当優秀らしいからな。」
「内海で待たせてあるのか。」
「好きに想像しろ。」
 二人の男が長い梯子を崖に立てかけて固定すると、背ばかり高くて細身のティルが身軽に駆け上ってゆく。梯子を登りきった後は慎重に、しかしためらう様子もなく、若葉生い茂る初夏の枝々の陰に消えた。
「お嬢ちゃん、ずっと気になっていたんだが、聞いてもいいかな。その小せぇ箱ん中、何が入っているのか。」
 目はティルの後ろ姿を追いながら、サナが尋ねる。
「さぁ、知らない。」
 自分の答えが可笑しいのは分かっていながら、アイキは真面目に応えた。
「知らないって、そんな。開けてみたことはないのか。」
「シャイナ国からもたらされた国宝が入っているとだけ聞いている。装身具……だとかいう話だ。」
 さすがに途中からアイキの口元に笑みが浮かんだ。彼らの理屈ではこんなに不条理なこともあるまい。
「だって、そりゃあ、お宝なんだろ。お宝なのに見せてくれないなんて、おたくの王様、すごいケチなんじゃないのか。」
 梯子を押さえていた男が、大声で、だが、どこか真面目にいぶかしがるような口調で言った。アイキは小さく笑うだけで応えない。彼らとは考え方も何も全てが違うのだ。彼らの道と私の道は、どこまで行っても交わることのないのだ。おそらくは。
「お前はそれでいいのか。」
 静かにロキが口を開く。予期せぬ問いかけに、そのまま目で問い返すと、ロキは目を背けた。
「宝を分かち合おうともしない者のために、なぜお前は命を懸けるのだ。」
 サナが目を見開いて見せたのが視界に入った。ジンジャーはぐったりと船縁に寄りかかったままアイキを食い入るように見つめている。
「私は宝になど興味はない。」
 舌打ちの音が響く。ロキの舌打ちはどこかティルのものと似ていた。ティルはロキを真似ているのだろうか。なぜか無性に可笑しくなった。ティルの消えた崖に目をやると、太い綱がするすると下りてくる。梯子番の男がそれをつかんで、何度か強く引いて強度を確認する。いつの間にか立ち上がったサナも綱の様子を確認すると、ロキとアイキの間に立った。
「博物院の辺りまで連れてけばいいんすね。」
「あぁ、そう深入りすることはない。歩けそうなところまでは担いでいってやれ。」
「へい。」
 言うなりサナはその逞しい肩にアイキを担ぎ上げた。腹がサナの肩に当たり、足音がそのままアイキの内臓を圧迫する。小箱を落とさぬように両手で持ち直そうとしたが、それが間に合わないうちに、サナは早くも梯子を登り始めた。荷物のように背負われた状態では、ジンジャー特使と視線を交わす余裕もなく、ましてあの大男がどのような顔をして見送っているのかも分からなかった。梯子が尽きると、綱を手がかりに、急斜面を一歩一歩登ってゆく。枝の間からティルが顔をのぞかせ、
「兄貴。もう少し右を登った方が、歩きやすいよ。」
 などとお節介を焼く。サナが笑ったのがかすかに聞こえる息の乱れから分かった。急斜面が終わっても、森のきつい坂が続く。
「降ろしてくれ、歩けるから。」
 しゃべろうにも内臓が圧迫されて、掠れたような声しか出ない。サナの息も弾んでいる。いくら強靱なサナでも、女とはいえ大柄なアイキを背負って坂を歩くのは大変なはずだ。だがそれでもサナは笑って言った。
「俺のことより、自分のことを心配しな。お嬢ちゃん、本当は立ってるのもきついんだろ。」
「そんなことは、」
「頭は、あんな人だ。お嬢ちゃんには嫌な思いをさせちゃったけどな、でも、俺達にとっちゃ堪らないすごい人なんだ。あの人は天才だよ。海賊としてな。天才だから気まぐれで、唐突で、滅茶苦茶で、でも、だから俺達はあの人に従っていこうと思っている。」
 切れ切れにつぶやくようにサナは言葉を選んだ。
「分かっている。」
 顔に当たる木の枝を、首を振ることで何とか避けながら、アイキは感情を殺すような声で掠れた返事を返す。何を分かっているのかはよく分からなかった。だが分かる。そんな気がした。
 髪に若い枝が引っかかり、そのまま折れて絡みついたが、小箱を抱えた両手ではそれを振り払うことも叶わない。若枝の苦い匂いがした。
「兄貴。平地に出た。」
 木々をかき分けて道を作っていたティルが振り返り、殊更小さな声で告げる。
「おう、人はいねぇか。」
 身を潜めるようにして辺りを見回したティルが、芝居がかったほど真剣な表情で頷くと、ようやくサナはアイキを大地に降ろした。背中を押してティルをどかし、周囲を見回して、しばらく顎をつかみ思案する様子だったが、アイキに手招きをする。
「ここでお別れかな。一応、見てくれ。ここがどこだか分かるか。」
「見覚えがある。裏庭の端だろう。」
 遠くに手入れの行き届いていない雑草のみっしり生えた花壇が見えた。すぐに研究棟の別館かどこかに出られるはずだ。戸惑う様子のないアイキに、サナはもう一度、目を見開いて見せる。驚いたのではない。きっとそれは名残を惜しむジェスチャーで。
「じゃあ、ここでお別れだな。」
 ティルが小声で割って入った。
「おい、もっと人のいるところまで運んでやらなくていいのかよ。」
「馬鹿だな、そんな深入りしたら、俺達が危ない。」
「私はここで大丈夫だ。世話になったな。」
 アイキの言葉にティルも諦めたように、小さく頷いた。
「世話に何かなっちゃいねぇよ。お嬢ちゃん、巻き込んじまって悪かったな。」
 口の端をゆがめ、サナは笑っているようには見えない笑顔で別れを告げ、ティルの肩を押して坂を下り始めた。裏庭は人影もない。茂みを抜けた途端、アイキは均衡を失って片膝をついた。土の硬い冷たい感覚が、膝から染みこんでくる。ゆっくりと立ち上がり、残った力を絞り出して建物に向かって歩き出す。花壇の奥に建物が見え、その裏手から、誰かがこちらを警戒しつつ近づいてくるのに気づいた。
 巡回の警備兵か。
 一気に気が緩んだ。もう一度膝をついた。今度は立ち上がれなかった。
「どうしました?」
 アイキのただならぬ様子に、警備兵は足早に近づく。制服からしてリスナ守備隊の所属であろう。
「すまないが、院長を呼んでくれ。それからザール知事と総司令部とに連絡を。」
 何事か分かりかねるように五十絡みの警備兵はアイキを眺めた。
 ああ。この男か。知っている。確か若くして妻を失い、娘二人、息子一人を男手一つで育て上げた……名前は確か……。
 アイキは苦笑しながら、務めて柔らかい口調で言った。
「そんなに見違えたか。カイト。」
 その言葉に男は雷にでも打たれたかのように直立の姿勢をとると、ただちに、と叫んで駆け出す。瞬く間に四五人の兵士が集まり、アイキを抱きかかえるようにして、建物の方へと連れて行った。




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