□ 三一 □
ダールの逃亡から六日後。
驚愕すべき話を携えて、フランクがリスナを訪れた。
フランク到来との報を受け、総司令の執務室には、副指令二人とロキが緊急招集されている。総司令部の対策会議に捕虜であるロキが参加するのは本来ならばおかしいが、今回ばかりはダールの性格を知り尽くしているはずのロキも参加させたいというアイキの提案に、二人の副指令も異論はなかった。
知事のもとに報告に向かったフランクとアイキは、まだ執務室に戻っていない。コアもまだ姿を見せない。今、執務室にいるのはリアとロキの二人である。
「お前が命令したのか。」
リアが呆れた声で尋ねる。フランクからもたらされた情報はまだ断片的にしかリアの耳には届いていない。
ダール隊がリスナ海兵隊の旗を掲げて内海に入ったこと。
海兵隊の制服を着た士官が海峡警備隊に「ニールへの緊急の使者を乗せた船である」と連絡したということ。
旗や制服といった小道具は全て、彼らが昔、リスナ海兵隊に所属していたときのものを大切に保存していたらしかった。あるいは行方不明になっているダールの監視係の兵士から、制服を奪ったのかもしれない。しかし、リスナ海兵隊を騙り内海に侵入したこと自体は、大した問題ではなかった。
内海に入ったダール隊は、こともあろうか真っ直ぐに首都ニールに向かったのだという。そして首都に正面から向き合ったダール隊の五隻は、早朝、まだ薄暗い王城の城壁目がけて大砲を発射し、思う存分、城壁を砕いた後、どこへともなく消えた。市街地には被害は及ばず、早朝であったためか、城内でもさほどの人的被害は生じていないらしい。それでも、リスナ海兵隊の旗を掲げた脱走兵が、首都の王城に砲撃をしかけるという前代未聞の大事件に、リアは驚いたり嘆いたりする以前に、呆れてかえっていた。
「知らん。俺にはダールが何を考えているかなど、全く想像が付かない。」
目を見開いて、にやにや笑いながら、ロキは言った。だが目に灯った光は、ダールの行動の理由をおおよそ知っていることを語っていた。
「腹心だったのだろう。ダールは。」
「あぁ。だが、分からないものは分からない。サナは俺の右腕だ。あいつは俺の言うことなら、何でも疑いもせずに従う男だ。だから必ず俺の横に置いておく。この場で俺を殺せと命じれば、サナは迷わず俺を殺すだろう。だが、ダールは違う。ダールは俺が何を言おうとも、自分がよかれと思うことしかしない。俺にとって必要だと思えば、俺がやめろと言ったところで自分の思う通りにする。俺が泣いて命乞いをしても、あいつは必要だと思えば、ためらいなく俺を殺すだろう。」
リアは一瞬、とても嫌な顔をした。それから薄く笑って、言った。
「なるほどな。で、ダールはお前のために何をしようとしているんだ?」
こんなことをすれば、アイキの立場が追い込まれるだけだ。バジルに捕らえられている双子の身にも危険が及びかねない。首都でアイキを支持しているジンジャーやジーンの立場も危うくなる。王城への攻撃は当然国王を敵に回すことにもなる。「リスナ海兵隊」の名を騙った脱獄海賊の暴動ではあるが、それはすなわちアイキの過失である。この事件が、ロキを首都に送らなかったアイキを更に追いつめることは想像に難くなかった。
リアの視線を正面に受けてロキは眉を上げたが、応えなかった。
廊下を蹴る足音が響き、コアが扉から顔を覗かせる。数分の後には、フランクを従えたアイキが姿を現した。フランクが部屋を過ぎって一番奥の丸椅子に腰を下ろすと、部屋を煙草の匂いが貫いた。
「さて、フランク、さっきの話をもう一度、頼む。」
アイキの右手が首筋を絶え間なく叩いている。フランクは煙草に火を付ける手を止めて、アイキに目をやった。そして姿勢を正し、順を追って話を始める。ダールの事件の顛末、そしてその後の始末。
「ダール隊が首都を離れてから、内海の沿岸都市にはすぐに命令が下りました。『町の安全を守れ』、そして『何とかしてその海賊団を討ち果たせ』と。海峡警備隊にも指示が飛びましたが、ずいぶんと激烈な命令でした。命に替えても討て、と。宮廷側は、リスナの策謀にはまって馬鹿を見たとばかりに激怒していたようです。」
一同を見回して、煙を吐き出す。フランクの目の下には色濃い疲労が滲んでいた。
「あの指示を見れば動かないわけにはいきません。どんな小さな都市でも討伐隊を出さずにはおられない。私はそう考えました。……しかし……。」
フランクが言葉を切る。そしてまた口を開く。
「しかし……各都市の守備隊を初め、首都の海軍までも、ダール隊を追撃しようとはしなかった、というのです。各都市守備隊は、目の前をダール隊が通ったとしても、全く手をこまねいて見送った。」
「それだけ怖がられているっていうことか。たった五隻の海賊風情が。」
フランクが煙草をくわえている間の沈黙に耐えかねたのか、リアが困惑気味に言葉を挟む。その言葉を待っていたかのように、フランクはリアを見やりながら言った。
「私も初めはそうかと思いました。ですが……考えてもみてください。リスナ海兵隊が、この国でどんな存在か。」
フランクはもう一度全員を見回した。
「アイキ総司令が就任してから、内海では海賊の被害がほとんどなくなりました。外海でも大した事件は起こっていない。それだけでもアイキ総司令が英雄になるのは容易いことです。しかしそれだけではない。総司令殿は、五十三隻もの海賊船を、血一滴流さずに降伏させた。その噂を聞けば、誰だって総司令殿がただものではない、と信じるでしょう。内海の沿岸都市にとって、総司令殿は神話に出てくる英雄のようなものなのです。」
小さく息をついて、コアは天井を見上げた。
「沿岸都市は、ニールを取るかリスナを取るかの選択を迫られたのです。ニールがリスナの船を討てという。リスナの旗を掲げた船は彼らの英雄の船。もちろん彼らも迷ったでしょう。ですが……結局、彼らはリスナを選んだ。そしてダールの船を見送った。」
ロキが物言いたげな眼差しでリアを見た。リアは黙って首を横に振る。窓を開けたままの執務室には、秋の初めの風が吹き込んでくるが、広くはないその部屋に四人の武官と一人の海賊がひしめき合っていると、涼しくはならない。
――私は英雄などではない。
――私は彼らの望む英雄などではないのだ。
この感覚には覚えがあった。アイキはふと思い出す。
――そうだ。この前……。それはダールの凶行を聞く前の日の夕方のことだった。
「アイキ様、とにかく、今、引いては駄目です。」
執務室で熱い茶を飲んでいたアイキを、ルーンの唐突な声が驚かせた。
「グレンが申しておりました。アイキ様のなさっていることが間違っているとは思えない。確かにルビーとラピスは心配だし、助けて欲しいですけれども、彼らのために節を曲げるようなことをしては駄目だ、と。」
ルーンの夫、グレンは、人質になっている双子の叔父に当たる。生粋のリスナっ子であり、リスナ知事館に勤める生え抜きの文官である。彼の意見にはたぶんにアイキへのひいきが含まれていようが、リスナ市民の多くの声を代弁しているところもあろう。口に付けた茶碗を机に置いて、ルーンに続きを促した。
「東方砂漠が手に入ったところで、私達に何があるかといえば、税金が増えるばかり、若い人が兵士に取られて、働き手が減るばかり、誰が戦争を大きくしたいと思ったりするものですか。漁師から商人から誰もかも、この国の人達は皆、心の中でそう思っているはずです。」
「それはそうだろうね。」
「アイキ様はお気づきじゃないかもしれませんが、皆、こう思っているんですよ。戦争ばかりしたがる首都の文官達より、首都に抵抗しているリスナのアイキ様の方がきっと私達の味方なんだ、と。だから、絶対に、ここで奴らに譲歩しちゃいけません。」
確かにあの日、ルーンはそう言ったのだ。ルーンにしては珍しく熱い口調で。
――私が首都に抵抗したのは決して戦争を止めるためなんかじゃない。
――私は彼らの望む英雄などではないのだ。
アイキはゆっくりと茶碗を取り上げた。不快ではない。だが苦しい。そんな感覚がその時アイキの胸にあった。風が葉擦れの音を運び込んでくる。耳に涼しい風も、執務室に涼を運んでは来ない。ルーンの言葉を思い起こしながら、アイキは集まった四人の表情を見比べた。
――自分は東方戦線の拡大に表立って異を唱えたことがあっただろうか。
あまり気乗りはしなかったにしろ、リスナ総司令は東部への物資の補給などにたびたび参加している。どちらかといえば、戦線の維持に一役買っているのである。戦争をやめさせようとしたことなどないはずだった。しかしリスナの民は、アイキが戦争を止めてくれると期待している。内海の人々もアイキを信頼し、支持している。ダールの凶行はその現実を白日の下にさらして見せた。
突然、白い鳥が、窓のすぐ脇を高い声を上げて過ぎる。
「カモメか。」
――あの日。
――命も誇りも捨てて見せようじゃないかと、ロキに向かってそう言わしめた自分の覚悟は、シャイナとビディアの戦争再発を防ぐための覚悟ではなかったのか。
――自分は変わったのかもしれない。怠惰になった。あの日の覚悟をどこかにしまいこんで、惰性でここまで来た。そうじゃないのか?
蒸し暑い部屋。
汗と煙草と潮の匂いが入り交じるその狭い空間に、アイキは軽いめまいを感じた。
窓の外に目をやれば薄闇が淀んでいる。
ロキの船に囚われた日の、狭い物置部屋がアイキの脳裏を過ぎった。今、それを思い出した理由は、明らかだった。
――領土拡大のための戦いはもう要らない。
そんな分かり切った願いが、ザールにも何度となく言われていたその言葉の意味が、急に現実味を帯びて心を揺さぶる。
――自分には両翼が備わっている。リスナと海賊と。
片翼の街リスナは、いつの間にかもう一つの翼を取り戻した。
総司令部の外に闇が迫ってきている。
木々の合間からのぞく紺碧の空と、紺碧の海。
――なんて小さな自分。
背中がぞくっとした。この暑い最中に、溶けかけた氷のような透き通った何かが、自分の背中に突き刺さっている。まだ王太子だったカリンを庇って、ガラス片を背に浴びた瞬間が脳裏を過ぎった。
――あのガラス片は、自分の中にまだ突き刺さったままなのだ。
執務室にいる男達は、黙ってアイキの言葉を待っている。
今は、ダールの件だ。まず、これに対処しなくてはならない。
リスナ海兵隊がダールを討てば海賊達が騒ぐだろう。もし彼らが一斉に反抗すれば、リスナ守備隊と海兵隊が総勢を上げて押さえたとしても、押さえきれるものでもない。
だが、ダールを許すこともできない。首都の王城を攻撃したダールを許すことは、リスナがビディア国を裏切ることになる。
そうなれば手は一つしかない。
「ロキ、ダールを捕捉することはできるか。」
鷹揚にロキは腕を組み直した。
「お前が望むなら。」
「ならば頼もう。一刻を争う。海兵隊の船を五隻、使うがいい。確実に捕らえてくれ。」
王城を砲撃したこと、カリン国王陛下に対するあからさまな反逆行為である。だが、アイキは自分自身の立場がそれによって追い込まれていることを、それほど現実的には感じていなかった。とにかく今は目の前の懸案を一つずつ処理してゆくしかない。
総司令部の上空を旋回していた一羽のカモメが、すっと海の方へと帰っていった。