□ 三二 □


 帰ってきたロキは、怪我一つせず、何事もなかったかのように、早朝の総司令部に顔を出した。ダールに連れ去られて行方不明になっていた兵士も、無事に保護された。そしてロキの腕には薄汚い大きな布袋が下げられていた。その臭いにアイキは嫌な予感を覚える。
「土産だ。」
 ロキはいつも通り大きく目を見開いて薄く笑った。
「ダールの首だ。お前には切れまい。ダールは王城を砲撃した。どう考えてもこの国にとっては、こいつは反逆者。かくまえばお前の立場がない。」
 ――土産。
 ロキの言葉を飲み込むには時間が掛かった。
 ――そうか。土産か。
 アイキへの土産ではない。これはニールへの土産。
「腑抜けの国王に見せてやれ。これが覚悟というものだ、と。」
 背中がぞっとした。あの氷のような鋭利なガラスの欠片を思い出した。
 秋の風がリスナを吹き抜けてゆく。それでも湿度が高い日には、ぐったりするような熱が総司令部にたまる。
「俺が奴の船に乗り移ったとき、奴は俺を見て、いつものように陰険に笑って、その場で自分の首をかききった。奴は俺を待っていた。俺に首をくれてやるためにだ。」
 寡黙な男だった。何を考えているのかさっぱり分からない。そして何も語らない。だが、ロキの一番の腹心。
「お前のために、お前に惚れた俺のために、俺に惚れたあいつ自身のために、あいつは命を捨てて見せた。……お前と同じだ。自分の命をくれてやっても構わないくらい……あいつはこの世界を気に入っていたらしい。」
 そう言い捨てるだけ言い捨てて、アイキに布袋を押しつけると、ロキは扉を乱暴に押し開けて出ていった。
「成り上がれ。お前ならできる。」
 振り返りもせずに一言だけ残して。
 ――ロキ……。
 あの表情には見覚えがあった。薄暗い海賊船の小部屋で、アイキに覚悟を見せて見ろと迫ったあの日のロキの笑い顔と同じ醜さ。
 ――ロキは海賊の誇りを捨て、ダールは命を捨てて見せた。
 ラピスとルビーのいない執務室は恐ろしく静かだった。瞳を閉じる。意識だけが背中に残る傷跡を辿ってゆく。刺さったガラス片は全て取り除いた。だが、まだ体内に残っている。
 ――成り上がれ、か。
 この一片の氷の欠片は、一体何の証なのだろうか。陛下への忠誠か。それとも……人としての矜持か。
 ――確かに最高の土産になろうな。
 副首都の総司令が裏切り者の首をひっさげて、首都に乗り込むのなら、国王に謁見を申し出るのも当然であろう。何ら不自然もない。
「ジンジャー特使をお呼びしろ。」
 ドアの向こうに声を掛ければ、「は!」ときびきびした声が応える。おそらくジンジャー特使はすぐに来るだろう。ダールの首はあの人には刺激が強すぎるかもしれないな。アイキは苦笑しながら、ゆっくりと布袋に手を掛けた。

 ジンジャーがリスナに現れたのは、ロキ帰還の前日のことであった。
 国王の特使としてアイキの前に姿を見せた彼は、まるでリスナ訪問が凱旋であるかのように誇らしげにアイキと握手を交わした。
「国王陛下が私にお命じになったんだ。リスナと話を付けてきてくれと。」
 それはおそらく宮廷内部でのバジルの敗北を意味した。一時的な敗北かもしれないにしろ、今はバジルよりもジンジャーをカリンは信任した。リスナの文官、武官にとってもそれは大きな事件であった。バジル派に所属するリスナ知事ダナンはなりを潜めたままであり、ジンジャー特使はダナンへは形式通りの挨拶をしただけで、特に省みる様子もなかった。
「首都が気にしているのは、アイキ、貴女の真意だよ。ロキの身柄を引き渡さないこと、リスナ海兵隊の旗を掲げた船がニールを攻撃したこと。宮廷はないがしろにされたことを怒ってはいる。だけど、同時に他の都市が半ば公然とリスナを支持していること、ニールもリスナなしには成り立っていかないことに気づいて動揺している。」
 怒っている、動揺している、と言いながら、ジンジャーはいたく愉快そうであった。
「陛下はバジル宰相にリスナ問題を任せるわけにはいかないとおっしゃっている。全てご自身で指示を出すと。親衛隊副隊長のジーンがリスナを信じるべきだと進言したしね。アイキが裏切るわけがない、と。今の首都はもう何を信じていいのか分からなくなっている。バジルを信じるべきか、アイキを信じるべきか。もう誰にも分からないんだ。」
 真意を問いただしに来たはずのジンジャーは、アイキに何も問おうとはしなかった。勝手に合点しているのか、本当に了解しているのか。
 そして言った。
「アイキ、一緒に来てくれないか。一緒に来て、陛下にお示ししてほしい。私達の歩むべき道を。」
 ジンジャーの高ぶった口調に、アイキは苦笑する。彼の理想を実現する機会が巡ってきたのだ。
 ――そう、戦争を止めるために。
 平和のために軍事力を使うというのは矛盾じゃないのか。平和のために、その強い武力で首都を黙らせたとしたら、それは全く間違っているのではないのか。
 ――あなたがたは、以前、そう言っていたのではなかったか。
 その言葉は心の中に押しとどめた。
 文官達にとっては戦争というのは政争の切り札の一つにすぎない。そんなことはずっと前から分かっていた。もちろん彼らにだって生々しい実感はあるだろう。だが武官達ほどには差し迫った感覚ではないのだ。けれど……ただの政治的切り札である分、自分達よりも冷静なところがある。それは文官の強みだとは分かっている。
 昨夜の段階では、アイキはジンジャーに返事をしなかった。
 まだロキが戻らない。ロキが戻るまでは、リスナを離れるわけにはいかない。
「私の一存で決めるわけにはいきません。明日か、明後日まで待ってもらえませんか。」
 そうしたらロキがダールを連れて帰ってくるかもしれない。ダールの真意を聞けば、また何かが新しく見えてくるかもしれない。そう考えていた矢先に、ダールの首が届いたのである。
「お呼び立てして申し訳ありません。」
 早朝であったにも拘わらず、特使はすぐに姿を現した。アイキはゆっくりと言葉を選びながら、しかしはっきりと言った。
「陛下に申し上げなくてはならないことがあります。首都へ参りましょう。」
「ああ。ありがとう。アイキ。」
 ニール行きを即決しなかったアイキに不安を覚えていたのだろうか。ジンジャーはアイキの言葉を聞いて、安堵の笑みを浮かべた。
 特使と入れ替わりに副指令二人が呼び出されて執務室に姿を見せる。ダールの死を伝え聞いていたためか、表情が少し強ばっている。
「疲れているようだな。朝早くからすまない。」
 アイキの言葉に、リアははっとしたように目を上げた。
「いえ、総司令、疲れてなどおりません。今後の方針を、」
 どこか早口なリアの言葉を遮るように、コアが口を開いた。
「あの、総司令、」
 コアが他人の話を遮るなど、珍しいことであった。それほど、コアは呆然としているように見えた。おそらくはダールの強烈な死に様と、ここ数週間の過労とがいっぺんに体を犯したのであろう。
 リアが黙ると、話を遮ったことに気付いているのかいないのか、コアが淡々と尋ねる。
「ダールの死を海賊達には伝えたのですか。まだ伝えていないのならば、どうやって彼らにこの事実を伝えるおつもりですか。」
 窓の外を薄く黄色がかった木の葉が、ゆっくりと舞い降りてゆく。それをコアの背後に見ながら、アイキは黙って首を横に振った。
 ――考えてもいなかったな。
 真っ先に考えなくてはならない問題のはずであった。
 ――さて、どうする?
 コアが言葉を続ける。
「ならば、総司令、私にロキを託してください。彼を連れて海賊達にそれを伝えに行きます。ロキの口から伝えた方が、誤解を招かずにすみましょう。誤解を招くことはあの、ダールの真意でもありますまい。」
 リアが唸った。他に手はない。そして、それは今すぐなすべきことであった。
 澄み切った薄い色の空を覆うようにして、柔らかい雲が開いている。その下を、はらりはらりと散り止まない落ち葉の流れ。
「すまない。頼んでいいか。」
 ぼんやりしているように見えたのは表情だけだったのかもしれない。コアは力強く頷いた。
 アイキから首都行きの話を聞いた副官達は、驚く様子もなく、それを了承した。覚悟をしていたというよりも諦めていたといった方が近いかもしれない。他に手はない。
 それに……この人はリスナ総司令なのだ。
 陛下直属の親衛隊副隊長に続いて、陛下から指名された首都の文官が、自らリスナまで赴いた。リスナ総司令に会うために。
 その点だけを取っても、リスナとニールの力関係が今までと違うことは明らかであったし、その要がアイキであることは明白すぎるほどであった。アイキに対する盲信と呼んで良いほどの信頼が、リスナには満ちていた。
 ロキを伴って、コアが牢獄に赴く。その後ろ姿を見送りながらリアはアイキに尋ねる。
「もし陛下が、万が一陛下が、総司令を害するようなおつもりであったならば、どうしますか。」
 アイキはゆっくりと振り向いた。そして穏やかに笑った。
「そのときは、リスナを頼む。」
 リアは返事をせずに目を伏せた。だが、アイキは言葉を続けた。
「だけど、私は必ず帰ってくる。皆が待っていてくれるなら。」

「なんでダールの兄貴なんだよ。俺にやらせてくれればよかったのに。兄貴がいなくなったら、誰が代わりができるんだよ。代わりに死ぬぐらいなら、俺でもできる。だけど兄貴の代わりは……」
 壁を力一杯叩いて、サナが掠れた声で喚いた。広くはない牢獄の空気が、しんと静まりかえる。
「うるせぇ。」
 そちらを見向きもせずに、ロキは舌打ちをする。牢獄の壁は秋の冷気にあてられて、朝のうちはじっとりと湿り付く。
「あいつはあいつの好きなようにしかしねぇ。あいつを止められる奴など、この世にいやしねぇ。ごちゃごちゃ言うな。」
 それからようやくサナの目を真っ直ぐに見据えて、目を見開いて言った。
「俺の部下に代わりのきく奴なんぞ、一人もいやしねぇ。お前が死んだら、誰が俺の機嫌を取るんだ。サナ、馬鹿なことを言うのもたいがいにしろ。」
 一瞬にして牢獄は静まりかえる。誰かが少し足を組み替えただけで、そのかすかな動きが低い天井に反射して響いた。ロキは一同を睨み付け、
「俺に無断で死んで良いヤツはダールだけだ。分かったか?」
 言い残して、くるりと踵を返し、足音をわざわざ響かせるように、廊下を大股に歩き始める。薄闇の中に沈む部屋中を見渡して、皆の表情を確認したコアは、小走りにロキに追いつく。足音の狭間に滴が落ちる音が聞こえる。
「これからどうするんだ。」
 ロキは振り返らずに、大きく口元をゆがめて笑った。
「捕虜に聞く台詞か?それは。」
 頭を振る。コアは言葉を慎重に選んだ。
「俺は誤解していたんだ。あんたは東方騎馬民族として、海賊として、リスナ、いや、ビディアを陥れるつもりなのかと思っていた。この国を恨んでいて当然だからな。だが、どうもあんたは違う。あんたは東方民族の誇り、海賊の誇りを捨ててでも叶えたい野望があるように見える。」
 低い天井に足音が響く。ロキが笑った。
「俺は惚れた女を成り上がらせたい。それだけだ。」
「総司令を成り上がらせる?」
 コアは視線を上げ、しばらく口元を強ばらせて迷っていたが、
「それは天下を取らせようと言うことなのか?」
 小声で尋ねた。ロキは鼻で笑う。
「俺はそうすればいいと思っているのだがな。だが、どうもあいつにはその気がない。それはそれで良い。俺には俺のやりようがある。あの女を成り上がらせるためにな。」
「総司令が、天下を?」
 コアの問いかけに、早足で廊下を抜けてゆくロキは全く意に介さない様子で続けた。
「東方砂漠には俺の一族がいる。お前の尊敬してやまないケツァルの親戚もいるだろうな。ビディアの連中は砂漠を世界の端だと信じているが、さらにその東には他の国がある。他の奴らが住んでいる。俺はそっちまで出かけて、でかい商売をしてやろうと思っている。とにかく砂漠の戦争が終わったら、海に逃げなくちゃいけねぇ奴らを拾って回る必要もなくなるからな。そうしたらでかい商売をして、儲けてやる。リスナ総司令を、ビディア王室以上に金持ちにしてやろう。必要ならいつでも、最強の海兵としてニールに刃向かってやろう。そう思っている。最強の船団と最高の財産を、あの女に全部くれてやる。それをどう使うかは俺の知ったことじゃねぇ。」
 信じられない、といった表情で、コアはロキの巨体を見上げた。それから自分の手を見た。ケツァルと同じ民族のこの男が、人を人とも思わない言動を繰り広げるこの男が、どうしてこんなに無様なまでに総司令に尽くすのだろう。ケツァルだってそうだ。いつも、自分の出自を東方蛮族とあからさまに蔑まれようとも、暗に揶揄されようとも、全く意に介さずに放っておいた。なぜもっとはっきりと言い返さないのか。副指令としての職務ばかりを気にして、自分の誇りを見失うなど、無様だ、情けない、そう思いながら、自分自身の姿が脳裏を過ぎる。
 ――誇りを捨ててまで総司令に、リスナに尽くす、か。
 この男にとって総司令とは何なのだろう。ケツァルにとってリスナとは何だったのだろう。自分は何かを抛ってまで尽くすものがあるのだろうか。
 大通りから港を眺めると、随分な人出であった。海賊達に慣れてきたからか、人々は以前のように普通に出歩くようになっていた。しかしそれにしても随分な人出である。牢獄の薄闇に慣れた目で、澄み切った空の下の群がる人影を見やる。
「総司令とジンジャー特使が出発なさるようです。」
 牢獄前に立っていた兵士が敬礼とともにそう告げる。
「成り上がれよ、アイキ。」
 ロキが自分自身に聞かせるように、つぶやいた。コアは聞こえないふりをして、
「急ぐぞ。お見送りだ。」
 さも当たり前のことのように、ロキを誘って小走りに大通りを下っていった。数名の兵士が後に従う。遠く港を眺めていたロキの巨体も、ゆっくりと動き始めた。

 



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