□ 三三 □
首都から来た船は三隻。いずれも国王が特使に直々に貸し与えた豪華なもので、それを護衛するように三隻のリスナ海兵隊の船が同行する。
「総司令をよろしく頼む。」
リアが護衛船の船長として指名したのはキースであった。ロキの船団との決戦の日、アイキの船の副船長を務めていた男である。その彼が船長としてリスナの三隻を指揮し、アイキはジンジャー特使の船に乗る。港から渡した板を踏みしめて、甲板までの数歩の距離を、海からの照り返しを浴びながら、アイキは静かに昇った。日差しは既に秋の色を帯びて涼やかに冴え渡り、カモメが鳴き交わしている。
一歩前を行くジンジャーの背。彼は軽やかに振り返り、陸の見送りの者達を見渡した。つられるようにアイキも振り返る。白い町並みが海を抱え込るかのごとく広がっている。港にはリアを先頭に海兵隊と守備隊の兵士達、その背後には幾重にも取り囲むように町の人々。彼らはただ押し黙って船に向かう二人を見つめていた。
坂を小走りに向かってくるロキとコアが見える。港の奥には船に押し込められている大勢の海賊達が、甲板で伸び上がってアイキ達の姿を一目見ようとひしめき合っていた。
ジンジャーがアイキを促して手を振る。手を振るのは自分の流儀ではない。そう感じながらもアイキはその手を軽く額の高さまで上げた。それに応えるようにコアが敬礼を捧げる。
そのとき、リアが跪いた。
それは王族と王族の特命を受けた者にのみ捧げられるべき礼である。ジンジャーは国王直任の特使であるから、それは礼にかなってはいる。だがリアの目は間違いなく特使ではなくアイキを見すえていた。ジンジャーはそれに気づいているのかいないのか、機嫌良く手を振って、人々に応えている。
一瞬の惑いの後、コアも跪いた。
ロキも目を大きく見開いてにやりと笑うや、大仰な動作で跪く。
港を埋め尽くす兵士達が一斉に指揮官に続いた。
彼らの頭上を海からの穏やかな風が駆け抜けて、リスナの町へと吹いていった。カモメの群がその風に乗って港の上空を軽やかに滑って行く。
突然のことに動揺したのか人々がどよめく。彼らの眼前には跪いた兵士達の姿。その向こうには彼らの総司令アイキ。そして背後に広がる一面の海。どよめきは一瞬にして喝采に換わった。彼らは歓喜の声を上げ、手を叩き、足を踏み鳴らし、口笛を吹いた。海賊船にひしめく男達もそれに応えるように、船縁を叩き、甲板を打ち鳴らし、指笛を高らかに響かせた。
呆然とするアイキにリアは小さく頷いて見せる。
――仕方のない男だ。
リアはリスナを心から愛している。だからこそこうやってアイキを送り出すのだ。リスナの全てをその肩に預けて。
口元が引きつるのを自覚しながらもアイキは懸命に微笑んだ。リスナが再びどよめく。風はリスナに向かって吹いている。
「行こう。アイキ。」
ジンジャーが満面の笑みを浮かべて、アイキを促す。
「はい。」
ジンジャー特使と二人で船に乗るのは、二度目のことであった。ロキの海賊船に襲われたあの日以来だ。
――あの日からどんなに変わったことか。
アイキは目を閉じる。そして大きく息を吸い込んだ。振り切るようにリスナに背を向けると、喝采がその背を追いかけてくる。いつまでもそのどよめきは耳を離れなかった。海峡ではフランク指揮下の警備隊が船を並べて敬礼で出迎えた。内海に入ったところで、珍しく雨に降られる。船足に影響するほどではなかったが、ジンジャーは神経質に瞬きを繰り返し、不安そうに何度も空を見上げていた。
けれどもアイキはむしろ雨を身に受けることに安堵さえ感じていた。
――ありがたい。
理由は分からない。首都ニールが雨の中に見えたときにも、雨に感謝した。晴天のニールでなくて良かった。
今まで何度もリスナ総司令として国王に謁見したことはあった。だが、国王の前で居並ぶ文官、武官に交じって、いつでも逃げるように隠れるように過ごしてきたのだ。
――今回はそうはいかない。カリン陛下と正面から向き合わなくてはならない。
灰色の空の下、ニールは煙っていた。
「アイキ、覚悟はある?」
霧雨に身をさらして王城を遠く見据えるアイキに、ささやくようにジンジャーが尋ねる。隣に並ぶ船からは、舳先に立って腕を組むキースの姿が見えた。秋雨に煙るしっとりとした空気の中には、身を切るような冷たさはまだなくて、ぬるくなじむ柔らかさが体を包み込む。アイキはジンジャーを振り向いた。
――覚悟、か。
果たして自分にはどれほどの覚悟があろうか。王城は高くそびえる。雲が覆う空は低く木々を圧し、穏やかな波が往来する海にうっすらと雲の陰が映っていた。
ジンジャーが何を求めているのかは分からなかった。だが自分はここまで来たのだ。ニールは目の前である。
「大丈夫です。お任せください。」
軽く目を見開いて頷いてみせた。そしてふとロキの癖が身にうつったことに気付かされる。
船は大きくゆらりと揺れたがそのまま静かに停船した。綱で船が固定されると、ジンジャーが軽く息をついて微笑んだ。
――ジンジャー閣下にとってはあくまでもニールは「帰港」する場所なのだろうな。
ニールに乗り込もうとする自分とは、違うのだ。そう思い至ってアイキは苦笑する。
――自分もニールで生まれ育った身であろうに。
秋の風を受けて湿っていた帆柱に片手をつけば、船乗り達が下船の準備をしているのが目に入った。霧の向こうから歩み来る出迎えの人影。ニール港にアイキを出迎えたのは宰相バジルであった。
「情報が早いな。」
ジンジャーはせわしなく瞬きを繰り返しながら、唇をかむ。
「どうせ話をしなくてはいけない相手ですから。早い方がいいですよ。」
アイキの言葉に特使は大きく頷いて、甲板から渡された板に足をかける。アイキもその後に続いた。出迎えのバジルは数名の側近を連れただけで、小雨に打たれながらアイキを待っていた。その威厳は衰えることを知らず、ここ数年の宮廷内部の政争を知らない人は、リスナ総司令として功なり名を遂げた武官を労うために、雨を冒してニールの宰相が出迎えに来たとしか思われないであろう。眉間には深くしわが刻まれていたが、美丈夫としての誉れ高いその容姿には、しわさえも貫禄の証に映った。
港の傍らには略式の迎賓館がある。そこをバジルは会見場所として選んだ。アイキには初めての場所であった。落ち着いたたたずまい、窓辺には白い花が生けられており、カーテンの薄紫とよく合っている。
「特使殿、リスナ総司令殿の案内はここからは私がいたしますので、今日はもうお休みになって結構ですよ。」
バジルらしからぬ慇懃な言葉に、アイキは戸惑いを覚えた。懐柔だろうか、それとも降伏したのだろうか。ジンジャーは一瞬、くすぐったそうに笑い、言った。
「ありがとうございます。宰相閣下。お心遣いには感謝いたします。ですがアイキ総司令殿は私が最後までご案内しますよ。陛下の御前まで。」
バジルの眉が上がる。声の調子が一転する。もとより準備をしていた言葉であろう。
「やはりお前も反逆者の一党だったということか。」
お前も、というのがアイキを指すのか、ジンジャーを指すのかは分からなかった。だが、バジルの論理からいけば、二人とも政敵であり、国家に仇為す存在であるに違いない。
「リスナ総司令アイキには謀反の疑いがある。陛下にお目通りを願い出ることなど許されるはずがない。法によって裁かれるべき身なのだ。違法行為、そして謀反の疑い。ここまで罪を重ねれば、自ら日を悟ることもあろうかと期待していたのだが無駄だったようだな。」
厳しい糾弾の口調はアイキにとってはむしろ馴染みの深いものである。これでやりやすくなった、かな。笑みすら浮かべてアイキは応える。
「陛下にお目にかからないうちはリスナには戻れません。裁判でも審議でも構いませんが、急いで陛下にお目にかからないと大変なことになるのですよ。バジル宰相。」
バジルとぶつかることは予測済みだった。たとえ落ち目の宰相とはいえ、そうやすやすと政敵の国王への目通りを許す男ではない。だが今日のアイキには勝算があった。
「リスナは、陛下を信じております。」
少し挑発的な色さえ見せて、アイキは言葉を紡ぐ。
「リスナはこの私の無実を知っております。リスナは陛下が正しい判断をなさらないはずがないと、よく分かっております。私が期日になっても戻らなければ、陛下と私の身に何かあったのではないかとリスナの民は心配することでしょう。リスナ海兵隊は八十四隻の船を総動員してでも、陛下を救いに参上するはずです。」
淡々とそれだけを述べると、アイキは黙った。いやがおうにも力関係が変わったことを思い起こさせる言葉。バジルはジンジャーとアイキを交互に見比べて、頭を振った。
「脅迫する気か。」
二人は黙ったまま、バジルを見つめていた。どうしても国王に会わせないつもりなのだとしたら、それだけ国王のバジルへの信頼が落ちているということだ。それだけカリン国王がリスナを信じているということだ。今のリスナは余裕があった。バジルのあがきにいくらでも付き合えるだけの余力をちらつかせて、アイキはめまぐるしく今後の展開を計していた。
「いいだろう。好きにしろ。陛下の前で今回の謀反を弁明すればいい。」
しかし宰相バジルは毅然として言い放った。
まるで自身の正しい判断を理解しない凶悪で愚鈍な謀反人に、匙を投げて次善の策を取ったかのように。その虚勢に一瞥もくれずにジンジャーは歩き出す。一刻も早く国王に報告したいのであろう。その背を追うように歩き出したアイキは、部屋を出る間際にゆっくりとバジルを振り向いて言った。
「うちの秘書官が二人、世話になっていると聞いております。彼らを一刻も早くお返しくださいますよう。」
形のいいバジルの眉が、ふと厳しく動く。それからまた頭を振った。
「好きにすればいい。この反逆者が。」
捨てぜりふのように吐きだされた言葉は決して偽りではなく、バジルの信じる道を思えば、まごう事なき現実のアイキの姿であった。
――確かに反逆者なのかもしれないな。
アイキは苦笑する。ジンジャー配下の護衛官に先導されて、久し振りのニールの町を、王城に向かって小雨ふりしきる中、歩んでいく。滴に濡れる道ばたの草々は、小さな薄青い花を付けている。風のたび、雨のたびにかすかに震えながら確かに大地に根付いていた。