□ 三四 □


 謁見の間までの道は忘れようがなかった。だがアイキは初めて通るような新鮮な感覚を覚えた。本当に初めての場所よりも、遥か記憶の底に沈んでいる場所の方がむしろ新鮮な感動を呼び起こすものなのかもしれない。後ろを歩んでいたはずのバジルの姿は、城内に入ってすぐに消えた。そして謁見の間に通されたときには、国王カリンと王妃リーナの隣に静かに控えるバジルの緊張した面もちがあった。
 予想以上にカリンは年老いていた。
 ――あの王太子がこうも年を取るものか。
 ――そして自分も。
 年月という目に見えないものを目の前に突きつけられたような感覚に襲われる。その横に座るリーナ妃。そば近く謁見するのは初めてであった。青白く張りつめた表情でアイキを見据える顔立ちは美しく、気丈で聡明そうに見える。バジルに何かを聞かされたのか、不安げにアイキを睨み据える目は強い意志を映していた。
 ――あぁ、この人ならば。
 そうアイキは思った。この人ならば何であるのかは分からなかったが、カリンの隣に凛として姿勢を正す彼女に、アイキは共感と安心を感じた。
 ――陛下は大丈夫。この人がそばにいてくれれば。
 家臣として立つべき場所に、アイキは確信を持って跪いた。ジンジャーは礼をしただけで、立っている。武官と文官の差と言えばそれまでかもしれない。だが、ジンジャーにはバジルを前に跪くことはできなかったのかもしれなかった。
 高い天井。
 深い青で統一された調度。
 深々と椅子に腰を下ろすカリンには貫禄があった。だが、その表情はあの日の面影を残していた。
 ――陛下。私にもあの日の面影がありましょうか。
「ただいま戻りました。報告は私の口からいたしますよりも、リスナ総司令アイキから直接お聞きくださいませ。」
 リスナに立てこもったまま、ニールへの謀反を企てているという総司令官を、単身で連れ戻ったジンジャーは、政治的な成功者であった。アイキを連れ出せなかったならば、彼の政治的立場はさらに悪くなっていたであろう。しかし成功すれば話は全く別である。バジルの端正な顔が静かに歪む。
 謁見の間の奥にそっとジーンが姿を現す。国王夫妻の椅子の後ろに寄り添う影のように立つ。それは親衛隊の副隊長として当然の務めだったのかもしれない。だが、バジルには気分の良いものではなかったに違いない。
 ――おかえり。
 アイキの目にはジーンが小さく頷いたように見えた。
「アイキ、」
 カリンがためらうように声をかける。青い絨毯に膝をつき、国王を真っ直ぐに見つめたアイキは、伏し目がちなカリンの眼差しとぶつかって、背筋が痺れるのを感じた。
「話してくれ、アイキ。どうして捕虜を裁判所に送ってこないのか。ニールをリスナの旗を掲げた船が攻撃したのはなぜなのか。」
 ――しょうがない人。
 アイキは声に出さずにつぶやいた。
 十八年の時間。
 二人の間には間違いなく隔絶された十八年の時間があった。
 だが、カリンはカリンだった。
 ――貴方はその恐怖を不条理なものと感じているでしょう。なぜ理由もなく自分の住んでいる場所が危険にさらされなくてはならないのか。なぜ怖い目を見なければならなかったのか。貴方にはきっと分からないのでしょう。
 ――しょうがない人。東方砂漠にも人は住んでいるのですよ。
「陛下、ニールを攻撃したのは、脱走した捕虜です。ニールを攻撃し、罪のない人々を恐怖に陥れ、陛下を脅かした罪は許されません。ここに脱走者の首がございます。お改めください。」
 手元に抱えていた包みを差し出す。近衛兵の一人が不審そうにその包みを受け取って、はっとした表情を浮かべ、国王に渡すべきなのか、視線をさまよわせた。
「ダールという反逆者の首です。どうぞお確かめください。」
 ――これが人の死というものです。陛下。これが死ぬということ。
 ――貴方が命じたのです。この裏切り者を処刑せよ、と。
「あぁ、」
 バジルの制止を振り切って、カリンは立ち上がり、その包みを受け取った。そして息を呑み、数秒の瞑目のあと、黙ってそれを兵士に返す。
 秋とはいえ、数日経った死者の首が無事にあるはずはない。防腐処理はしたが、それでごまかせるのも限度がある。
 リーナ妃がひっそりと口元を押さえた。異臭に耐えかねたのであろう。それでも表情を変えないのは大した気丈さであった。
「海賊団の長ロキをニールの裁判所に送れないことについては、親衛隊副隊長であるジーンからお聞きではないでしょうか。ロキがリスナを離れたと聞けば、あの大規模な海賊団の秩序が乱れるに違いありません。現にロキが首都に送られるとの噂を聞いて、ダールはこのような事件を起こしたのです。本当に送れば、どうなることか、想像がつきません。」
「それを何とかするのがリスナ総司令という立場なのだろう。」
 判で押したような同じ弁明を繰り返すアイキに、苛立たしげな言葉をかけるバジル。カリンはバジルに背中を押されたのか、多少きつい声を出した。
「もう一度、機会をやろう。アイキ、ロキを首都に連れてくるんだ。リスナではほとんど海賊達が野放しになっていると聞く。それは危険だよ。やはり悪の親玉は始末しないといけない。最後の機会だ。アイキ、いいね。」
「無理なものは無理です。」
 アイキは動じなかった。何度でも同じ言葉を繰り返すつもりであった。
 ――ニールの宮廷は現実を理解していないのか。
 分かっていたはずだった。今までだってニールは常にそうだった。
「アイキ!」
 カリンは叱りつけるような声を出す。
 ――可哀想な人。
 ――でも貴方は自らそこに立つ道を選んで、私は自らここに跪く道を選んだのだから。
 一度、アイキは目を伏せた。それからこの三日間で選び抜いた言葉をゆっくりと口に上らせた。
「以前、陛下は私を似たもの同士だと言ってくださいましたね。立場に縛られて、苦しんでいると。もっと自分らしくしていいじゃないかと、言ってくださいました。他人の痛みを感じられるだけの想像力をお持ちの陛下を、私は敬愛しておりましたし、陛下に国王としてこの国を治めていただけたら、どんなに素晴らしいことだろうと思っておりました。」
 謁見の間は、広くひんやりとしている。敷き詰められた鮮やかな青の絨毯は、おそらく舶来品なのだろう。東方に見事な絨毯を作る民族がいるという。この絨毯は、大国の優越の証なのかもしれない。
 ――思ったほど動揺していないな。
 やけに冷静な自分自身に少し驚きを覚える。自分が黙れば謁見の間は沈黙に満たされる。その静寂さえも心地よかった。
 ――約束を守るために来たのですよ。陛下。
 カリンは真っ直ぐにアイキを見つめていた。
「私はリスナ総司令に就任するとき、陛下に二つの約束をいたしました。一つは、私がリスナにいる限り、リスナは決して陛下に敵対することはない、ということ。それは間違いなく守ってきたはずです。陛下、今日に至るまでずっと。」
 気圧されて、カリンは小さく頷いた。バジルがそれを横目で盗み見る。
「もう一つの約束は、陛下が道を誤ったときには、命に代えてでもそれをお諫めするという約束。これを守るために、ニールに来たのです。ご記憶ですか。陛下。」
 跪いたアイキと、見据えられ気圧されて頷くことしかできないカリンの間には、張りつめた均衡があった。静まりかえり、窓辺から雨垂れの音ばかりが響く。
「昔、陛下がまだ士官学校に通っておられたころ、ガラス窓が割れて、破片が飛び散ったことがありましたね。そのとき私は陛下を庇って、背中にいくつものガラス片を受けました。今でもその傷が残っています。」
 何を言い出すのだ、とでも言いたそうにリーナが目を見開く。だが、カリンは小さく頷いて言葉の続きを促した。
「あの日、はっきり理解したのです。陛下になら私のこの身を捧げても惜しくはない、と。でも、陛下はあのとき、王太子だから自分を庇ったのだろうとお怒りになりましたね。私は陛下が陛下だから、カリン陛下、いえカリン殿下であるからお守りしたかったのだと、そう申しました。私の言葉は嘘ではありません。それを証明するために、ニールに来たのです。カリン陛下のためなら命を差し上げる覚悟だと、あの日の言葉が真実なのだと、それをお見せするために来たのです。」
 それはとっさの判断であった。生きようと願う命を守りたい。ただそれだけの計算も何もないとっさの判断。
 だが今でもカリンを思うときには背中の傷が疼き痺れる。
 それは間違いなく、カリンを一人の命として愛した証であった。偽りのない真実として確かにカリンを愛した。だからこそ、国王になる道を選んだカリンに命をかけても尽くしたいと思った。武官として、でも良い。いや武官だからこそ尽くせるのだ。自分は武官としてしか生きられないのだから。
 ――だから陛下。私はニールに来たのです。ニールに戻ったのではありません。私の帰るべき場所はリスナ。それが私の選んだ道です。
「私は武官です。多くの者を殺しました。敵兵も、部下の兵士達も、私の命令で死んでゆきました。これからもきっと多くの者を殺すでしょう。……そう。ダールを殺したように。」
 それは武官であるから当たり前のこと。それでもカリンは瞠目した。
「死が怖くないかと言えばもちろん怖い。ですが、私は武官です。それが務めであればためらわず従います。もとより貴方に捧げた命。お役に立てるなら、どこで散ろうと光栄に思うのみです。」
 雨だれの音。
「ですが、陛下。民は死ぬためにいるのではありません。生きるためにいるのです。死の恐怖にさらされるためにいるのではありません。この世界を愛して生きるためにいるのです。」
 ――自分の命をくれてやっても構わないくらい……あいつはこの世界を気に入っていたらしい。
 ロキの押し殺したような声が蘇る。
 いつの間にか捕虜を集めることに熱中しすぎたのではないか、とアイキは思う。リスナ総司令としての自分は、戦争を捕虜集めにすり替えて自分の良心をごまかしていたのではないか、と。
 ――でも陛下。私だって、命と引き替えにして良いと思うくらい、貴方のいる世界を気に入っているのですよ。
「ご存じでしょう。陛下。今、民は苦しんでおります。終わらない戦争に喘いでおります。陛下の仕事は民を生かすこと。民の命を愛すること。そうではありませんか。そうであるならば……いえ、そうであると信じて、私は約束を守るためにニールに参上したのです。」
 アイキは言葉を切った。奥の部屋へと通じる廊下の扉を背に、ジーンは目をつぶって聞いている。ジンジャーはカリンを見据え、バジルとリーナはうつむき加減に絨毯を見ているようだった。富、栄光、全てを象徴するかのように、鮮やかに床を覆うその光沢が、薄暗い部屋を支えている。カリンが先を促すように軽く顎を上げる。
「陛下、今すぐに東方戦線を撤収してください。戦線の全てを。」
 いつの間にか雨垂れの音が絶えていた。静まりかえった謁見の間を、薄日がかすかに照らし始め、アイキは目を上げて真っ直ぐな視線を逸らさずに、もう一度、繰り返した。
「東方戦線を。陛下。」
 光を受けて、窓辺には影が生じ、その影に沿って明るい帯が謁見の間を渡る。陽光は、それがたとえ西日であったとしても、薄闇に艶めく絨毯とは明度が違いすぎる。
 その戦の不毛は、誰もが知らないわけがなかった。過去の栄光に囚われて、惰性で続いてきた泥仕合。それでも夢を見る者は尽きることなく、宰相バジルもまたその栄光を追い求めてやまぬ一人であった。
 そんな中で、海賊船が五十三隻、新たに兵力に加わったのである。
 奇跡を期待するなという方が無理な話であろう。多くの文官、武官がその奇跡を願った。世界最強の海兵を持つことになれば、東方砂漠を獲るどころではない。もっと大きな戦果が挙がるかもしれない。そんな夢が心を過ぎったはずである。おそらくはカリンにも。
 その夢を打ち壊そうとすれば反逆者の汚名を着せられてもやむを得ない。それでも伝えなくてはならない。
 ――お諫めするのが約束でしたから。民は戦争に倦んでいる。その声が貴方に届いていないなら、それをお伝えする。お諫めする。そうお約束しましたから。それが私の選んだ道。だから……。
 言い終わって息をつくと、すがすがしさが心に満ちた。
 これで通じなかったらしかたがない。これで反逆者として処刑されるなら構わない。この世界となら命と引き替えにしても良い。リスナにはリアがいる。コアもいる。ロキもいる。何も心配することはない。
 ――幸せな人生だったな。
 ふと思う。まだ終わったわけではないけれど。
 永い沈黙を破ったのはカリンの声だった。
「ごめんね。アイキ。」
 そうつぶやくとカリンは泣きそうな目をした。そしてジーンに目をやる。
 バジルは苦虫をかみつぶしたような顔をして、しかし口を挟むことができずにいた。ジンジャーがじっと見つめる視線を、鬱陶しそうに振り払おうとする。
 謝罪の意味を掴みかねて、誰もがカリンの次の言葉を待つ。
 カリンは瞑目するジーンから視線をアイキに戻した。
「ジーン、東方戦線の将軍達に命令を。」
「は。」
 ゆっくりとジーンが目を開く。
「速やかに撤退するようにと。」
 ゆっくりとだが力強く言い切ったカリンの声に、アイキは低く頭を垂れた。
 深い絨毯を踏みしめてカリンの足音がする。肩の上に手を置かれ、アイキは静かに顔を上げた。
「私はあの約束を信じていなかったんだ。私のそばを逃れるため、私を捨て、裏切るための嘘だと思っていた。そう思っていた方がずっと楽だったんだよ。私だけ楽をしようとして。アイキはずっと、ずっと、私が気づかなくても側にいてくれたのに。ごめんね。」
「身に余る、お言葉です。」
 思いもよらず、言葉が詰まった。涙腺というものが自分にも備わっているのだと、アイキは久し振りに思い出した。泣くわけにはいかない。そのまままた俯いたアイキに、
「戻ってきてよ。ニールに。私にはアイキの助けが必要なんだ。」
 俯いたまま、アイキは小さく頭を振った。
 窓から射し込む光は、雲の隙間を通って貫くような西日であった。背中が疼き痺れるような感覚にアイキはゆっくりと息を吐く。
 ――貴方のおそばにはリーナ妃がおられますよ、陛下。
「申し上げたはずです。私がリスナにいる限り、リスナは陛下を裏切りません。私はリスナにおります。リスナが私の帰る場所なのです。」




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