□ 六 □
――中央の文官は試験で選ばれる。貴族も平民も関係ない。――
この文官採用システムは国の平等と安定を支える重要な制度であった。もちろん多くの弊害もあったが、優秀な政務官を常に補充することができるこの文官登用制度は、ビディア国の長い歴史と同じだけの年月を重ねている。
優秀であれば、貴族もまた試験に臨んで宰相の位まで上りつめることもできるが、ほとんどの場合、貴族達は武官になる道を選んだ。貴族であれば、王室に対する忠誠心が高かろうという理由から、武官であれば優先的に高い地位を得られる。一世代に一人の高位武官がいれば、その一族は何とか貴族としての体面を保つことができた。
アイキの実家であるウィンズ家もビディア貴族の端くれである。その子弟アイキにとって、自分が武官の道を歩むのは至極当然のことと思われた。決して名門とは言い難い血筋ではあるが、五代前にビディア国軍の最高司令官を出し、王室の覚えも悪くない。しかしアイキの父は、二歳になる一人娘のアイキとその母ケイトを残して、名誉の戦死という名の下に若くして世を去った。
母と娘、二人きりで残されたウィンズ家には、養子を取るように、あるいは将来有望な武官をアイキの婿として迎えるように、周囲からさまざまな助言や勧告が与えられた。だが、アイキの母はそれを頑として受け入れようとはしなかった。ウィンズ家には多少の領地があり、その領地で養っていけるだけの食客がいる。彼らがアイキの教育に当たった。
ある日のこと。国王が戯れに貴族達に謎を与えたことがあった。
「我が愛馬の目方を量る方法を考えたものには、褒美を与えよう。」
その噂を聞いたアイキは、食客達に尋ねる。
「国王陛下の馬は大人しいのか?」
食客達に馬は大人しいと聞かされて、アイキはしばらく考え。
「小さい舟に乗せて、どこまで沈むか調べれば良い。馬を降ろしてから、舟が同じだけ沈むように石を載せていく。積み込んだ石の重さを量って合計すれば、馬の重さと同じになる。違うか?」
それを聞いて、食客達はケイトにこう告げた。
「奥様、どうぞアイキ様を王室の士官学校にお入れなさい。女性だからといって不安になるようなことはございません。そりゃあ、剣や槍を使わせれば、力負けするかもしれません。大きな銃や、重い大砲の玉は、扱いづらいかもしれません。ですが、司令官に必要なものは閃きと思考力。アイキ様にはそれがございます。剣が巧みでも、閃きに欠ける司令官など何の役に立ちましょう。」
かくして十四の年には、アイキは王室の士官学校に入学した。女だからといって、甘やかされたり、馬鹿にされたりしたくはない、と自ら男の身なりをまとった。笑う者もあったが、多くはその負けず嫌いな性格と、それに伴う努力の前に、引き下がっていく。長い王室士官学校の歴史をひもとけば、数年に一人、女の学生の名が見える。彼女らはいつでも並々ならぬ負けず嫌いであり、アイキもまたそんな一人であった。
「君がウィンズ家のアイキだね。」
初めて声をかけられたのは三年生のころ。アイキは七人いる同級生の中で、既に軍略においては群を抜いていると評判を得始めていた。
貴族の子弟ばかりが通う王室士官学校は、学生の数などたかが知れており、たいがいの学生には見覚えがある。だが、声の主を見やったアイキは、一瞬きょとんとした。もちろん誰であるかはすぐに分かったし、彼が二学年先輩であることも知っていた。けれど、彼に名前を覚えられているとは思いもよらなかった。
「王太子殿下……!」
将来、文官と武官を束ねて立つべき王太子は、週に二日士官学校に通い、週に三日は文官達の元で政治や経済の学問を学んでいた。その評判は聞いていたし、実際、遠くから忙しそうに校内を歩み去る姿を見たことはあったが、その声を聞くなど、初めてのことである。
「男の身なりで通っている女の子がいるっていうから、どんな怖そうな子かと思っていたけど、なんだ、普通の女の子なんだね。安心したよ。」
王太子はそう言って気さくに笑った。そして手を振る。
「じゃあ、またね。」
大柄で厳ついアイキに比べると、王太子は男性ながら華奢でどこか弱々しくも見えた。なんでもないことをなんでもない口調で、普通に話す姿は、王太子というよりは良家のお坊ちゃんのようであり、どこか頼りない感じすらした。彼の背を見送って、ふと我に返ったアイキに、同級のジーンが控え室の窓から身を乗り出して声を掛ける。
「今、王太子殿下としゃべってた?」
「あ、うん。この学校に女がいるっていう噂をお聞きになって、どんな奴か気になっておられたみたい。」
「ふぅん、そうか。でも、すごいね。殿下に話しかけていただけるなんて。俺も話しかけられてみたいな。」
無邪気に笑うジーンに笑い返し、アイキは控え室に入った。仲間達は王太子との会話を聞きたがったが、すぐにその話題にも飽きて、取り留めのない話に興じ始める。笑うだけ笑って、いつの間にか昼休みは終わって。そんないつも通りの日常が、そこにはあった。
そして、翌週。
王太子に声を掛けられたことなど、ほとんど思い出しもせず、アイキはいつも通り仲間達のいる控え室に急いでいた。そこへ。
「アイキ、これから昼ご飯かい。」
話しかけられて振り向けば、王太子が立っていた。
先週と同じ場所、同じ時間、しかも同じ曜日。
もしかして自分がここを通ると知って、この場所で待っていたのだろうか。
ざわざわっと胸に不思議な風が吹く。それは決して不快な感覚ではなかったが、少し怖くて。アイキは短めに言葉を返す。
「はい。今から、」
「誰かと約束があるんじゃなければ、私と一緒に食べない?」
アイキの言葉を遮るような王太子の言葉は、どこか堅苦しく、うわずっているようにも聞こえた。王太子と自分の身分の差は頭を過ぎらなかった。ただ、この気弱そうな青年の誘いを断っては悪いのではないだろうかと思って、
「はい、あの、よろしければ。」
一瞬の躊躇の後発せられたアイキの声に、安堵の表情を浮かべて、青年は微笑んだ。
「よかった。じゃあ、行こう。私の控え室に、君の分の昼食も用意させてあるんだ。」
どう反応していいのか分からないまま、アイキは曖昧に頷いて、王太子の後に続いた。そこはアイキ達の控え室と大して違わない質素な部屋で、二三名の警護の者が控えている他はこれといって特別な様子もない。
なぜ自分を昼食になど、誘うのだろう。珍しいから?男装などして可笑しいから?ウィンズ家の者だから?
散り散りな思考が頭を過ぎるうちに、王太子に向き合って食事をとっている自身がいた。午後は同級の者達にいろいろと言われるだろう。一人だけ王太子の招きを受けたことを、抜け駆けだと誹る者もあるかもしれない。そこまで思い至ったとき、突然全身を緊張が襲った。笑顔にならねばと意識しても、どうすれば微笑めるのか、忘れてしまったようで。
「そんな怖がらないで。私は妖怪じゃないんだから。」
どこか諦めを含んだ眼差しで王太子は笑った。
「なぜ、私を誘ってくださったのです。」
何かしゃべらなくてはと焦って口を開く。だが、まるで王太子の好意を詰るような言い方に、アイキは自らの耳でそれを聞きながら狼狽えた。
「ごめんね、そんなにびっくりさせるつもりじゃなかったんだ。ただ、アイキに初めて会ったときに、なんか、アイキと私は……似たもの同士かなと思ったから。」
「似たもの同士?」
すまなそうな王太子の口調にも、どうしたらいいのか分からぬまま、口から出る響きは相変わらずつれなく不愛想で、自分の声であるのに、遠くから聞こえるように感じて。
「うん、なんかね。息苦しそうだなって。」
「息苦しい、ですか。私は別に、そんなことは、」
「思わない?本当にそうならいいんだけど。」
穏やかなその声は、二歳年上とは到底信じられないような、しっかりとした芯の強さを持っていて、先週感じた頼りなさは錯覚のようであった。面と向かって座ると、姿勢のせいであろうか、王子はアイキを見上げるような格好になる。アイキの目を見すえて、王子は低い声で言った。
「ねぇ、それならなぜ、男の身なりをしているの?」「私はアイキが本当に好きなんだ。」
王太子はいつもすぐに、そう言って笑った。
「アイキは頑張り屋でいつでも一生懸命だからね。私も頑張ろうという気になるよ。」
士官学校に来る日は必ず、アイキを食事に誘い、しばらくすると休みの日には、アイキが王太子の居室に出入りするようになった。
「王太子殿下なんて、呼んじゃ駄目。カリンと名前で呼んで。」
「そんなことを言われても、困ります。……カリン殿下、ならばよいでしょうか。」
「まぁ、それでもいいや。」
立場や身分に捕らわれることをカリンは嫌った。アイキがカリンを王太子として扱おうとすれば、悲しそうな目で怒る。その理由が分からないわけではないのだが、アイキの目からは、王太子はあくまで王太子であって。
「ただの士官学校の先輩だと思ってよ。学校の友達だと思ってよ。私は王太子として生まれてきたんじゃない。カリンとして生まれてきたんだから。」
無理を承知でそう要求してくるカリンを、気が付けばアイキはどこか哀しく愛おしいと思うようになっていた。その感情が何であるのかにも、もう気づいていた。だが、相手は一国の王太子であり、自分は下級貴族の娘、しかもしがない武官の卵である。身を低くしてこの嵐をやり過ごすほかない。それも分かっていた。
王太子の側近らも、王太子が麻疹にでもかかったのだと諦めて、この執着ぶりに目をつぶって知らん顔をしている。美しくもなく、特別気だてがよいとも思われない没落貴族の小娘になど、すぐに飽きてしまうだろうとふんでいた。アイキ自身もその判断に賛成だった。カリンの気持ちなど、ちょっとした気まぐれだ。そう信じていた。しかし王太子が士官学校を卒業して、王の仕事の補佐官として働き始めてからも、その関係が続く様子を見せると、側近達も少しずつ王太子に苦言を呈し始める。さらに二年後、アイキが武官の資格を得てからは、本格的に干渉を開始した。
「大丈夫だよ、アイキ。私が守るから。」
王太子はいつもすぐに、そう言って笑った。アイキの勤務地は、王太子の意向を反映して必ず首都の近郊。同級生達も初めは冷やかしたり、やっかんだりであったが、王室側のアイキへの干渉を見て眉をひそめるようになり、次第に普通の同級生の関係に戻っていった。
「もし、アイキが王妃様になっても、俺達のこと、忘れないでよ。」
時折ふざけた口調で、ジーンにからかわれたりもしたが、アイキはその話題を嫌ったし、仲間達もだんだんあまり王太子との関係を口にしなくなった。アイキが王太子のお気に入りであることが、宮廷の勢力争いで軍にとって有利に働くと考えてか、アイキの行動について上官達も何も言おうとしなかったが、それすらもアイキにはどこか息苦しい。
卒業後一年経ったころであった。
幼少期から彼女を守り育んでくれた食客達は、武官となったアイキにとっても大切な家族である。彼らはいつでも遠慮なくアイキを叱り、あるいはさまざまなアドバイスをくれる。だが、カリンとの関係についてだけは彼らも口をつぐんでいた。
「私は……どうすればいいのでしょうか。」
彼らの沈黙の意味を理解しながら、それでも迷い続けるアイキに、長老格の男がある時独り言のようにこう言った。
「いつだって答えを出すのはアイキ様、あなたです。ですが、考えるためのヒントを差し上げましょう。」
数日後、アイキの元に、その男の遠縁にあたる三姉妹がやってきた。建前上はアイキの身の回りの世話をするため、である。だが、彼女たちが「考えるためのヒント」であるのは明らかであった。年齢も近く、仕事も口も達者な三人は、いつもアイキのそばにいて。
「いい加減、別れたらいかがです。」
ルーンはすげなくそう言い捨て。
「そんなに悩むとお食事がまずくなりますよ。」
おっとりとムーンは微笑んで。
「アイキ様は王太子殿下のどこが好きなんですか?」
トゥーンが目を輝かせて好奇心むき出しで尋ねてくる。
そんな三姉妹の声が、アイキの深く閉ざされた思考の迷路に、さまざまな角度から光を当ててくれる。時には突拍子もなく、時には的確に。だがどんな光であれ、彼女たちの声が何よりも嬉しかった。女友達とか姉妹とかいうものは、こういうものだろうか。声を聞くたびに、アイキはふっと肩の力が抜ける自分に気付いていた。「武官をやめる気はない?」
ある時、思いあまったように王太子が尋ねた。既にカリンとアイキをじりじりと取り囲む包囲網からは、逃れる隙もない。二人を別れさせようとする者たちはみな口々に「今まで武官と結婚した王はいない」と口にする。それは確かにそうであった。武官などと結婚する王太子がいるはずがない。それはアイキにも分かっていた。
「私は武官であることを誇りに思っております。それに、私が武官をやめれば、今までこの件に口出しをせず黙って動向をうかがっていた軍の上層部も、動き出すはずです。彼らが黙っていたのは私に利用価値があると思っているから。彼らが私を切り捨てれば……きっと、もう二度とお目に掛かることはできなくなるでしょう。」
きっぱりと手を切ってしまえばよいとは思っていた。三姉妹の長姉ルーンなどはたびたびアイキにはっきりとそう告げた。そのつもりで王太子の居室に行っても、その言葉はついにアイキの口から出ることはなく、時ばかりが流れていく。何度も何度も後悔を繰り返しながら、アイキはいつしか二十六歳になっていた。