□ 七 □


 東部戦線への伝令はアイキにしては珍しく長く首都を離れる任務だった。十七日後、報告のために王城に入ったアイキは軽い違和感を覚える。周囲の様子がおかしい。報告書を提出しても、目を合わせようとしない上官。顔見知りの文官もアイキを避けているように見える。何か釈然としないまま、その足で若い武官達の仮眠室へ向かえば、仮眠室の入口で待ち受けたジーンに袖を掴まれた。
「アイキ、大変なことになった。」
 声を殺して、眉根を寄せ、深刻な顔でジーンは早口に繰り返す。
「大変なことになった。」
「大変な、こと?」
 ジーンは深く頷いた。
「上層部がアイキを捨てて、文官達と取り引きをした。シャイナとの戦争を止める代わりに、アイキをリスナに飛ばすって。」
 アイキは驚かなかった。ただ漠然と、解放されたように感じた。王太子のことをキライになっていたわけではない。だが、この複雑な関係の中で翻弄されるのに疲れていたのかもしれない。強制的に今の状態に片が付く。心を占めるのは安堵に近い思いであった。
 ジーンは黙り込んでしまったアイキを見て、ひどくショックを受けたと思ったらしく、心配そうに顔を覗き込む。その視線が痛かった。
「シャイナとの和平工作は、うまくいくのか。」
「え、あ、そりゃあ、うまくいくだろ。」
「ならそれでいい。」
 アイキは低く言い捨てると、仮眠室の空いているベッドに身を投げ出した。泣きたいような気もしたが、笑い出したいようにも感じた。
 ビディア国の北部国境では、シャイナ軍との一進一退の攻防が続いていた。近年はビディアが攻勢ではあったものの、東部の砂漠から侵入を繰り返す騎馬民族との小競り合いもあって、軍は疲れ切っていた。優勢である今のうちに有利な条件でシャイナとの和平を結びたい。それが軍部の主張であった。
 だが、文官達の中には有利なうちに、シャイナを叩きつぶしてしまった方がいいと考える主戦派も多い。そして大半の文官はアイキと王太子の関係に批判的である。――二人の関係を密かに支えていた軍部が、王太子からアイキを引き離す代わりに、停戦の裁可を文官達に求めた、ということか。取り引きとしては悪くない。
 当事者であるべきアイキにはまるで他人事のように思われた。和平は結ぶべきである。それにこれで自分を縛る政治的なしがらみからもきっと解放される。
 そこまで考えたところで、突然涙が零れた。
 隣のベッドに座ってジーンが不安げにアイキを見守っていることには気づいてはいた。だが、壊れたように涙腺から溢れ出す涙をどうすることもできず、何が哀しいのか全く分からないまま、アイキは声を殺して泣き続けた。  
 しばらくすると、士官学校の教官だった男が仮眠室をのぞいた。ジーンに目配せをする。戸口で二人の男はなにやら話をしていたが、ジーン一人が、そっとアイキの隣のベッドに戻ってきた。そして躊躇いを含んだ声で告げる。
「バイザー宰相がお呼びだそうだけど。……どうする?」
「宰相殿が?」
 今回の人事の件での呼び出しであろうとは見当が付いた。バイザーはシャイナとの和平を推進する立場ではあったが、武官であるアイキが王太子の側にいることを快く思っていない。軍の上層部はバイザーと結んだのだろう。そしてアイキを説得するという面倒な役所も、バイザーが進んで引き受けたのだ。シャイナに人脈を持つという噂の彼ならば、和平交渉でも華やかな活躍をするに違いない。
「執務室に行けばいいのか。」
「あぁ。無理はするなよ。アイキ。俺も一緒に行こうか。」
 力無く身を起こしたアイキは、ジーンに穏やかな表情で笑いかけた。目が少しだけ赤く腫れていることをのぞけば、いつも通りの様子だった。
「大丈夫。心配するな。ジーンは過保護すぎる。」 
 立ち上がって、壁に吊された古い鏡でほつれた髪を軽く整えると、伸びをする。顔を洗う。目の腫れはそう目立たなかった。そして
「ちょっと行って来る。」
 もう一度ジーンに笑いかけると、アイキは足早に出ていった。今まで眠っているように見えた仮眠室の人影が、五人ばかりこっそりと身を起こし、誰もいなくなった戸口に目を向けて、黙って首を横に振った。一人がつぶやく。
「……負けんなよ。」
 もちろん誰も応えなかった。だが他に言うべき言葉も見つからなかった。

 宰相の執務室は、いつでも扉が開いていた。開放的な政治を、誰にでも開かれた戸口が示していた。少なくとも彼はそう主張している。その強権的な手法を覆うための手段だとしても、万人に向けて開かれた扉は、評判がよい。
「失礼します。お呼びとうかがいました。ウィンズ家のアイキです。」
「いらっしゃい。」
 その華美ではない明るい部屋に、武官としての最敬礼をもって足を踏み入れたアイキを迎えたのは、予想通り上機嫌な笑顔の初老の男であった。
「東部の砂漠地帯に使いに行ってきたところだというが、疲れているのに呼び出してすまなかったね。」
「いえ、疲れてなどおりません。ただの伝令ですから。」
 声が固くなるのを自覚する。これから下される命令に逆らう気など、最初から毛頭ありはしない。それでも不安と緊張が押し寄せてきた。
「いいな、若いのは元気で。さて、君に陛下から新しい任務が下されることになった。ウィンズ家の名に恥じない働きをしてもらうためにね。聞いているかい。」
「いえ。」
「そうか。その辞令を出すために呼んだのだから、それも当たり前かもしれないね。」
 男は柔和に微笑んだ。この男の辣腕は有名な話だが、本人を目の前にすると、その辣腕ぶりが想像できなくなるというのも、有名な話であった。
「君にはリスナに飛んでもらうことになった。明日にでも出発して欲しい。リスナ総司令官として、腕を振るってもらいたい。」
 総司令官……?
 その肩書きはアイキも想像してはいなかった。おそらくはリスナの下級軍属として、うだつの上がらない一生を送ることになるのだろうと、ジーンの話から勝手に思い込んでいた。まさか総司令官の職を用意しているとは……。
 副首都リスナの総司令官といえば、武官の名誉職であり、数年間形だけ奉職し、そのまま引退してありがたく恩給生活者となる定めであった。本来は、欲のない、武官に向かない名門貴族や王族が、特別に頂く一種の下賜品のような職である。このままアイキを厄介払いし、数年後にはアイキを表舞台から消し去ってしまうため、王太子に文句を言わせないだけの肩書きを用意したのであろう。
「リスナ総司令官とは、私には荷が重すぎます。」
 分かっていて、アイキはあえてそう逆らった。謙遜のように見えて、どこか仕事への執着のようなものがアイキを急き立てていた。
 名誉職に追いやられるくらいなら、下級軍属の方がまし。
 だが、その抵抗に二言目はないと自分でも分かっていた。
「君が優秀なのは、士官学校の先生方も口を揃えているよ。この人事についても、先生方や君の上官はみな、君なら勤まると保証してくれた。やってくれるね。」
「……陛下のご命令とあれば。」
「あぁ、よろしく頼む。」
 話は終わった。宰相に最敬礼を捧げると、アイキは踵を返す。逆らう気はない。だが、自分は文官達の政治取引の駒として捨てられるのではない、陛下のご命令だから従うのだ。それがアイキの武官としての最後の意地であった。
 明日になればリスナに発たなくてはなるまい。長く首都に居残れば、国王の辞令に不満があるのだろうと糾弾される。できれば今日のうちにでも発った方がいい。
「ああ、そうだ、アイキ。近々王太子殿下が、シャイナ国のリーナ姫とご婚約遊ばされる。治安維持のためにはリスナの海兵達によく働いてもらわなくてはならないからね。ご結婚の儀式のために、そのうち内海の大掃除をやってもらうことになると思う。」
「承知、いたしました。」
 振り返り、アイキは自分でも驚くほどはっきりとした口調で応えた。なるほど、王太子に政略結婚をさせるつもりなら、ますます自分の存在は煙たいわけだ。驚きはなかった。王太子という立場なら、当然の道だろうとさえ思われた。自分は武官で……それにもう年を取りすぎた。
 宰相の部屋を出てすぐに、小走りに少年が駆け寄ってきた。見覚えのあるその顔に立ち止まると、
「……お召しです。」
 カリンの召使いである少年は、すれ違いざまに小声で告げ、軽く会釈をして、そのまま王太子の居室とは別の方向へ走っていった。表だってアイキを呼び出すわけにはいかないということなのだろう。仮眠室に戻る予定だった足でそのまま王太子の居室へと向かう。もう二度と入ることはないだろう重い扉を押し開くと、青年が一人泣き腫らした目を上げた。  
「ごめん、君を守れなかった。」
 扉を開けるその瞬間まで、アイキは自分の行動を何回ともなく描き出していた。王太子に対して何を言い、どう振る舞うか。決定していたはずの筋書きが、カリンの弱り切った姿を前に揺らぐ。
「ごめん。アイキ。」
「カリン殿下。」
 下唇をかんだ。王太子を慰め励ますのは容易い。いつもやってきたことだ。弱い王太子を受け止めるのが自分の務めだと分かっていた。しかし今日はそうするわけにはいかない。アイキはその場に跪いた。武官として、王や王太子の前で跪いたことなら何度もあった。だが、二人きりの時に跪いたのは初めてである。その意味は明白だった。
「王太子殿下。」
 そう呼んだのもおそらく初めて出逢った日以来のこと。カリンは息を呑んだ。
「アイキ、君まで……君まで私を裏切るのか。」
 王太子の声は詰る響きもなく、ただ深い悲しみばかりが掠れた中に淀んでいた。
「君が愛したのは……カリンではなく王太子だったのか。」
「私が愛したのはカリン殿下。あなたです。王太子殿下であろうがなかろうが、カリン殿下、あなたを。それは嘘ではありません。嘘でないことなど、殿下はご存じだったはずです。私は嘘を付くほど、器用ではないから。」
「あぁ。」
「王太子殿下。でも私はその思いと同じくらい真剣に、殿下に王位を継いでいただきたいと望んでいます。殿下は自分の中に強い痛みを感じて生きてこられた。自分の痛みを知ることで、他人の痛みにも優しくおなりになった。殿下の優しさは、誰よりもこのアイキがよく知っています。殿下、王太子としての自覚をお持ち下さい。私の気持ちはもう決まっております。殿下が首都でおられる限り、今の優しさで王として君臨なさる限り、副首都の総司令官は命の限り、忠誠を尽くすことでしょう。そして万が一、殿下が道を誤られたときには、副首都の総司令官がまた、命に代えてもその過ちを糺しに参ることでしょう。」
 跪いたままで、アイキは一気にまくし立てた。うつむいた視線は床の木目をなぞるばかりで、カリンがどのような表情をしているのか分からない。
 名前だけのリスナ総司令官であっても……忠誠心だけは貫けるから。
「私にリスナを……お任せ下さい。」
 しばらくは沈黙が続き、王太子がアイキに背を向けて窓を向いたことだけが、足音からうかがえた。
「アイキ、こんな時に、どうしてか分からないけど、昔のこと、思い出した。覚えてるよね。士官学校の控え室に一緒にいたときに、たまたま近くで銃が暴発して、爆風で飛ばされた石が窓に当たってね。窓が砕けたじゃない。そのとき、アイキは身を挺して私を庇ってくれた。で、なんて言ったか覚えてる?王太子だから庇ったのではない、カリン殿下だから庇ったのだって言ってくれたよね。あのとき、私はそれを素直に喜ぶことができなかった。本当に私を私として好きでいてくれるのなら、私は男で、アイキは女なんだから、私に庇わせて欲しかった。」
 カリンの声は掠れて、ところどころ聞き取りづらかった。アイキは少し顔を上げて、カリンの背中を見やった。あの日、カリンはやはり泣いて、どうして自分を庇ったりしたのかと強く詰り、何度言っても、アイキの言い分を聞こうとはしなかったのだ。その理由は、今初めて聞いた。不器用な人。カリンの背中が小さく震える。アイキは再び視線を床に戻した。
「でも私は……アイキが私を愛してくれていることは、ずっと分かっていた。それに甘えていたんだ。いつも、こんな弱くてわがままな私をアイキは許してくれるから、ずっとむちゃくちゃ言って甘やかしてもらって、いつまでもこのままいたいと夢見ていた。私だって……本当は分かっていたよ。いつかこうなる日が来るかもしれないって……。その日には私は私の翼で飛び立たなくてはいけないって……。」
 カリンの足音が近づいてくる。アイキの前にゆっくりと片膝をついてしゃがんだ。
「ごめんね。あの日の傷、まだ残っている。肩にも、背中にも。」
 降りかかるガラス片に驚いて、とっさに王太子を庇ったとき、アイキはそのガラス片に背を向けた。本来ならそのように無防備な姿勢をさらすことは許されない。誰がどこから王太子を狙っているのか分からないのだから、次の攻撃に備えなくてはならない。王太子の警護としては失格であった。だがその日、アイキは王太子を守りたかったわけではなかったのだ。大切な人を守りたかった。そのために反射的に体が動いた。傷は痕になっているが、カリンを守るためなら悔いはない。それは紛れもない本心であった。
「アイキ。」
 カリンが、服の上から記憶のままにアイキの傷跡をたどってゆく。そしてしがみつくように、アイキの肩に顔を埋めた。
「明日、発つんでしょ。……今夜はここに泊まってよ。ごめん。わがままだって分かっている。でも、明日からは私も自分の翼で飛ぶから。今日は一緒にいて。」
「カリン殿下……仕方がない人。」
 アイキのつぶやきに、カリンはくすくすと声を上げて笑った。そしてすぐにその声は嗚咽に変わる。
「何かあったら、私に助けを求めてね。何かあったら、私を助けてね。私が道を誤ったら、絶対に私を止めにきてね。アイキ……君以外は、誰も私のことを叱ってはくれないのだから。」
 アイキは黙って、カリンの背中を抱きしめる。もうこれが本当に本当の最後だと思いながら。

 夜明け前にアイキは自宅に戻り、昼過ぎには三姉妹だけを連れて、リスナに向かう船に乗った。実家から駆けつけた母親は食客達を連れて行けと言ったが、自分の手勢を率いてゆくわけにはいかないと、アイキはその申し出を断り、ほとんど身一つで首都ニールを後にした。




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