□ 八 □
ニールを発って四日後の早朝、昇りかけの太陽と、薄く刷いたような切れ切れの綿雲を空の低い位置に配して、海が途切れた辺り、若葉の深く降り積もった森の合間に白い都市が見えた。中央には港、そこからなだらかな丘が広がり、まずは総司令部のある大きな建物、その背後、さらに坂を上ったところには白亜の知事館。中心部から放射状に広がる市街。それは西に長く伸びて、西の果てに大きな博物院。近くで見れば灰色がかった建物も、海からの照り返しの前には全て真っ白く輝いており、この副首都リスナは海上の白い都市として有名であった。
「片方の翼だけを広げたカモメみたいですね。」
三姉妹の末娘トゥーンが甲板で、強い風に帽子を押さえながら言った。
「本当、鳥みたいに見える。」
急な旅立ちにも、文句の一つも言わずについてきてくれた三人に、アイキは言いしれぬ感謝を感じていた。この先、明るい将来のあるはずもない武官に、何の見返りも期待せずに付き合ってくれる。この三人と巡り会えただけでも、自分は恵まれているのだと思う。数羽の白い海鳥が、甲板に影を落として過ぎってゆく。
出迎えは簡素だった。ザール知事に就任の挨拶を済ませる。副首都リスナの知事であり、将来は宰相にと下馬評の高いザールは、首都の動きをよく知っており、アイキの立場に同情的であった。副首都の知事を奉職することは、宰相への道の重要な布石であるが、同時に、宮廷内の動きに疎くなり権力闘争から脱落しかねない危険を兼ね備えた地位であった。バイザー宰相に踊らされているアイキの姿は、どこか自分と重なって見えたのかもしれない。
その足で総司令部に入ると、リスナ守備隊のケツァルと、リスナ海兵隊のリアが出迎えた。この二人が実質的な司令官である。アイキは名ばかりの総司令、儀式への出席以外のことは期待されてはおるまい。副司令官達にとっては、鬱陶しいだけの上司であろう。出迎えを受けながら、自分の不甲斐ない立場に苦笑した。
ケツァルは一兵卒からの叩き上げでここまで這い上ってきた男である。もう五十に近いその鋭い双眸は、何もせずに総司令に成り上がったアイキを厳しく見据えてくる。もう一人の男は、士官学校の先輩に当たるアイキより一回り年かさの武官であった。名門とは呼ばれないにしても、貴族の端くれであり、同期の中では飛び抜けた才能の持ち主として、実力相応の地位を獲得している。
「私は自分の立場をわきまえているつもりです。迷惑をかけることもあろうかと思いますが、どうぞご教導下さい。」
人払いをした後、二人の副官を前にアイキは深々と頭を下げた。それを見たケツァルは眉根を寄せて、少し困ったようにリアを見やる。
「総司令、頭を上げてください。」
ケツァルの視線に穏やかな笑みを返してから、リアは強い口調で言った。
「もっとしっかりしていただかなくては困ります。貴女はここの総司令なのですから。」
「しかし、」
彼は言い募ろうとするアイキを柔らかい眼差しで制し、走り書きのような手紙を示した。
「貴女が乗ってきた船で一緒に運ばれてきた手紙です。士官学校の学校長は俺の恩師でしてね、彼からの手紙なんですが。さっき、ケツァル副指令にもお見せしました。俺も彼も、意見は一致しています。ここに総司令官として就任してきた歴代の総司令は、その能力がなかったから大人しくして頂かなくてはならなかったわけです。でもアイキ総司令、貴女は違います。貴女は有能な武官としての将来を、たまたま運悪く巻き込まれた政争で失ってしまっただけ。実力は、この手紙で学校長がその名に賭けて保証してくれている。今、貴女の味方をすることは学校長にとって何の儲けにもなりません。それでも貴女のためにこの手紙を書いた。それだけで俺とケツァル副指令には十分です。貴女にはそれだけの価値がある、ということ。だから、貴女は普通に総司令としての仕事をなさればよろしい。俺達は貴女の副官として働きましょう。もちろん、貴女がその任に堪えないのだとしたら、傀儡に戻っていただくほかありませんが、何も初めから人形のふりをすることなんてないんです。」
そう言うとリアは「失礼」と断ってマッチを取り出し、手紙に火を付けた。灰が床に散る。その手紙が学校長にとって、またリアやケツァルにとっていかに危険か。アイキはあっという間に黒い灰となった手紙から目を離せなかった。
淡々として、しかし毅然としたリアの口調からは、その意図がうかがいにくい。早いうちにアイキに失策を犯させておいて、武官生命を完全に絶とうという魂胆なのか、本心からアイキの働きに期待しているのか。いずれにしても、まだ実務に携わる機会が与えられるのかもしれないと思うと、急に心が軽くなった。毎日毎日、執務室に座って暇を潰し続けなくてはならないというわけでもないらしい。たとえこれが二人がかりの罠だとしても、しばらくは取り組むことがあるのだ。アイキは口元を引き締めた。
とにかくやってみよう。
「ありがとうございます。働く機会をいただけるのでしたら、精一杯務めます。」首都から内海の海賊の掃討命令が出たのはその一年後のことである。リスナの政治や軍事の制度をすっかり飲み込んだアイキに、リアが告げた。
「今回の作戦は、総司令が全面的に指揮を執ってはいかがですか。そろそろ仕事にも慣れたころですし。」
海賊の掃討が、国内随一の海軍都市リスナに命じられたのは当然といえば当然であった。しかし、掃討の理由が問題である。
――シャイナ国のリーナ姫とカリン王太子との結納の儀式に向けた治安維持のため。
建前上は内密な関係だったとはいえ、王太子の長年の恋人であったアイキ麾下のリスナ海兵隊にその指令を出すのは、あまりにも配慮に欠けるのではないか。リアは憤っていた。口にこそ出さないが、その指示をアイキに伝えたザール知事も不快感と同情を抱いているように見える。
総司令として、アイキは進んでリスナの文官達と交流を持ち、兵舎に自ら出向いて兵卒達とも会話を交わした。住民の声にも耳を傾けと務めた。その熱意は十分に人々に伝わっている。今までの総司令とは少し違う。彼らは口々にアイキを評した。
――あの人は貴族だけど普通の感じがする。
――あの人は私たちと同じ言葉でしゃべってくれる。
――あの人は私の話に笑ってくれる。
その言葉をたびたび耳にしていたリアは、ケツァルやザールと謀って、アイキに総司令としての本来の仕事を任せてみようと考えていた。それはもちろん、首都の企みに対する強い反感もあったが、アイキに対する同情以上の親近感が生じていたのも間違いなかった。アイキには人を惹き付ける何かがある。そう感じた。それは総司令官として必要最低限の資格である。
「私が、か。リスナ海兵隊に出た指示だろう。海兵隊の司令官はリアではないか。」
たとえ年上でも、部下であれば相応の言葉遣いをするようにとのザールの言いつけをアイキは守っていた。心の中には、目上の者にぞんざいな言葉を投げつけることへの抵抗があったが、ザールの指示とあればやむを得ない。ザールはアイキの上官ではないが、宮廷における地位は知事の方が高く、またザールの仕事ぶりと人柄にアイキは心服していた。だから逆らう気はなかった。
「いえ、リスナ両軍の最高司令官はアイキ総司令ですよ。」
有無を言わせぬ口調で、穏やかな目を真っ直ぐにアイキに向けて、リアは断言する。
「これだけ大きな仕事なんですから、やはり貴女が仕切った方がいい。その方が示しがつきます。」
言いながら、海図を取り出し、石造りの机の上に広げてみせる。カーテンを揺らす初夏の風が、巻き癖のついた地図を巻き返そうとするのを文鎮で押さえつけると、丸みを帯びた薄い木の葉が軽い音を立てて地図の上を転がった。日が高いせいで部屋の中はやけに薄暗く感じられる。
「ここが、リスナ。ここが首都ニールです。さて。我々の戦力は限られていますが、海賊達はどれだけいるのかさっぱり見当もつきません。どうします。総司令。」
軍略が得意科目だった。実戦でも作戦会議の末席に連なったことはある。しかし王太子の庇護があったころは、逆に責任のある立場に立たされることがなく、意見を述べることすらほとんどなかった。だが、もちろん、いつだってアイキは「自分がこの作戦を任されたとしたら」と考え続けていた。その記憶が蘇る。
見慣れた海図を眺めて、アイキは少し黙っていたが、
「私だったら……」
ゆっくりと口を開いた。
「リスナ海兵隊を二つに分けて内海で海賊を仕留める。一隊はリアが指揮をして商船を装った囮になり、もう一隊は私が指揮をする。海峡警備隊にも援軍を要請して、海峡は完全に封鎖し、逃げようとしたところを必ず挟み撃ちにする。リスナはケツァルの守備隊と、海兵隊の一個小隊を残す。」
地図の上をアイキの無骨な指がなぞってゆく。商家の女将に、田舎者の指だと笑われたその節くれ立った指は、リアが期待するとおりに内海の要所要所を過たず指し示し、海賊達を追いつめる道筋にためらいはなかった。
「それでいきましょう。総司令、貴女は期待以上の人だ。」
リアの言葉はたぶんにお世辞のように聞こえたが、その口調にアイキは心地よいものを感じた。純粋な好意が含まれている言葉は、どれほどの嘘を含んでいても聞く者の心を温かくし、勇気づける。言葉以上の力が与えられる。アイキは微笑んだ。
「その期待に背かないようにしたい。リア、協力してくれ。」
「お任せ下さい。」
リスナ総司令官のアイキが、将軍を輩出したウィンズ家の名に恥じない武官であり、今までのリスナ総司令とは全く違うという噂が、宮廷から庶民にまで行き渡ったのはその作戦遂行の直後であった。海賊船が掃討されつくしたせいか、商船を見たらリスナ海軍だと思えと海賊達が震え上がったゆえか、内海では商船の被害報告が一つもなくなり、漁師も安心して夜の海に漕ぎだした。首都に連行された海賊船の幹部達は、宮廷の裁判所で裁かれ、罪の重い者は命でその罪を贖い、比較的罪の軽い者は国王への忠誠を誓って、自分の配下達とともに海軍に組み込まれた。もちろん忠誠を誓わぬ者は命でその罪を償うことになる。この作戦が行われた一ヶ月あまりのうちに、海軍の支配下に新たに加えられた船の数は、十五隻を下らなかった。
アイキの言動に目を光らせていたバイザー宰相を初めとする宮廷の文官達は、決してアイキの活躍を快く思わなかったであろうが、首都への復帰の足がかりをつかんだわけではなし、放っておいても問題ないと判断したようである。お飾りの総司令の身でありながら、海賊掃討作戦の指揮を執ったことに特別なとがめ立てはなく、むしろアイキの名声を、ビディア国の繁栄の証として宣伝に用いさえした。
「結納式のために首都周辺警備につけ。」
リスナ海兵隊に国王直々の指示が出されたのは、海賊掃討の疲れも取れぬうちのできごと。アイキは麾下の船団を率いて大急ぎで首都へと向かった。
シャイナからの使者が無事に帰途について警備が一段落すると、首都でのお祝い騒ぎに肩をすくめながら、リアは一足先に海兵隊を率いてリスナへと戻ったが、しばらく首都に残れと命じられたアイキは、ほんの数隻の船とともにニールに留まっていた。
そして、式典の厳かな気配がまだ消えぬその夜。
時の宰相カーディンの執務室に呼び出されたリスナ総司令アイキを待ち受けていたのは、シャイナ国からの結納の品を捧げ持つジンジャー特使であった。
「これをリスナの博物院に納めたい。」
リスナ総司令官が特使に同行すれば華がある。総司令官などお飾りに過ぎないのだから、こんな時こそ働いてもらわなくては。
カーディンがアイキを指名した理由はその程度のものだったのだろう。しかし、その判断が軽率だったと知れるのは三日後のこと。ロキの船が王太子と国王旗を掲げる船団を襲うこととなったのである。話は、現在に戻る。
謹慎はすぐに解けた。アイキの失態を明るみに出せば、結納の品を強奪されかけた責任は宮殿の高官達にまで及ばないわけもなく、叩けばほこりの出る人々の手によって、事件そのものが曖昧にもみ消されたようだった。例の小箱は運搬の途中に危険にさらされたことなどなく、内海には海賊は既に一人もおらず、全てが順調。宮廷にはそのように報告された。もちろん、実際は誰もがこの事件を知っていたはずであるが。
知事の執務室に呼び出され、粛々と事件のもみ消しが行われ、おかげで謹慎が解けたことを知ったアイキは、
「やはり、あれは本物だったのか。」
ザール知事が聞いていることも忘れて一人ごちた。一瞬、何のことかと戸惑ったザールであったが、すぐにその豊かな腹を揺すって笑う。
「囮だと思ったか。カーディン宰相はこれでもお前のことを買っておいでだ。」
シャイナとの和平を進めて北方戦線を回収し、その一方で東部戦線への兵力増強すること。そして百五十年前の戦争で失われた東部の大砂漠地帯を奪い返すこと。
それが先の宰相バイザーの夢であった。
今は、彼の一派は少しなりを潜め、政略結婚に巻き込まれて割を食ったアイキに同情的なカーディンという男が宰相になっている。王太子のお気に入りであったアイキを警戒しながらも、手駒として期待する。そんなカーディンとの関係は、バイザー宰相の時同様、大変に不安定なものであった。だからこそ、自分が囮だったのではないかと疑いもしたのである。
「陛下も殿下も、アイキが無事で何よりであったとおっしゃっているそうだ。何も心配することはない。それよりもまた、海賊掃討の計画があるのだから、準備を念入りにしてもらいたい。もう、こんなにどきどきするのはごめんだからな。」
恰幅のいいザールは、文官らしい慎重さと几帳面さで、アイキに対する気配りを言葉の端々ににじませている。カーディン派の彼にとっては、今のところ自分の立場は安泰であったし、彼が気に入っているリスナ総司令についても少しは後ろ盾として助けてやれそうだと自負していた。
「総司令。謹慎が解けたお祝いだ。後で酒を届けさせよう。家で祝杯でもあげなさい。」
自分の娘のように若い副首都総司令。彼女一人で背負うには、副首都は重すぎる。もっと笑ってもいいだろうに。もっとはしゃいでもいいだろうに。
ザールは深々と礼をして去っていくアイキに笑みを返しながら、小さく溜息をついた。